「新しき闇の条件」
エシャン王宮の東側、王族の居住区である『東の離れ』では、連日、異様な光景が繰り広げられていた。
魔法大国において、建築や改装は魔導具による効率化が常識だ。しかし、王命によって始まったこの工事は、そのすべてを否定していた。
「……いいか、魔導具は一切使うな。すべて人の手で、物理的な遮光を徹底しろ」
現場を監督するマシューの指示に、職人たちは戸惑いながらも、最高級の厚手の遮光布を何層にも重ね、窓を塞いでいく。
この”魔導具を停止させた、完全な闇の空間”の構築は、瞬く間に後宮の妃たちの知るところとなった。
「……陛下は何をお考えなの?」
ダイアナは、届けられた『改装の進捗』の報告書を叩きつけた。
王が特定の妃のために、それも魔法を否定するような野蛮な方法で部屋を整えさせている。これは単なる特別扱いではない。まるで、その部屋の主を”外の世界から完全に隔離し、守ろうとしている”ようにも見えた。
「ついに狂って閉じ込めることにしたのかしら。……いいわ、移動させない方が、あの物置で朽ちさせる方が都合がいいけれど……。陛下が何を企んでいるのか、探らせなさい」
ダイアナの命令を受け、後宮の影たちが動き出す。しかし、彼らはまだ気づいていなかった。彼らが探るべき相手は、もはや王ではないことを。
一方、西棟。
その日の夕刻、これまで一度も届かなかった”食事”が、ついにその扉を叩いた。
「……失礼いたします。陛下より、お食事を預かって参りました」
給仕係が、震える手で重い銀のトレイを差し出す。トレイの上には、魔導具による保温ではなく、直火で丁寧に調理され、今なお湯気を立てる肉料理とスープが並んでいた。
対応したのは、無言の圧を放つ従者ケリーとサリーだ。
二人は、まるで爆発物を処理するかのような手際で、徹底的に検分を始めた。
毒見はもちろん、指先で温度を測り、香りを嗅ぎ、果ては肉の切り口まで確認する。その異常なまでの慎重さに、給仕係は蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
「……毒は無し。ただし、このスープは香りが強すぎるわ。お嬢様のお好みに障る」
サリーが冷淡に告げ、トレイの半分を撥ね退けた。
奥の闇から、アシュリーの掠れた声が響く。
「……サリー。それは、嫌な匂いがしないわね」
「左様でございます、アシュリー様。魔導具を使っていないようです」
「……そう。少しだけ、いただこうかしら」
アシュリーが”運ばれてくるもの”に興味を示したのは、これが初めてだった。
ーーその報告が執務室に届いた時、ヴィンセントは思わず、持っていたペンを置いた。
(手応えはあった、か)
有能な王は、確信した。彼女は”豪華”さではなく”形ある誠実さ”にのみ反応する。
側近の間では「あのような危険な存在、西棟に幽閉しておくべきだ」という意見と、「一刻も早く東の離れへ移し、目の届くところで管理すべきだ」という意見が割れていたが、ヴィンセントの心は決まっていた。
「準備を整えろ。今夜、彼女に打診する」
夜。西棟の、埃っぽいが静かな闇の中に、王の使いであるマシューが訪れた。
改装の終わった東の離れへの”移動”の提案。それは実質的な正妃としての待遇の保証であったが、アシュリーの反応は鈍かった。
「……移動、ですか。今の方が静かですし、あそこは光が多すぎますわ」
「ご安心ください、アシュリー様。陛下が用意された”新しき闇”は、ここよりも深く、静かでございます」
マシューが丁寧に説明する。
一切の魔導具を排し、日光を完璧に遮断した、彼女のためだけの真空。
アシュリーは、グラスを傾けたまま、わずかに瞳を動かした。
「……条件がありますわ。……完全なる静寂。そして――いかなる隙間からも、光を入れないこと」
「そちらの条件でしたら、問題ございません。改めて私の方から、後ほど陛下へ直接お伝えいたします」
マシューの即答に、アシュリーはくすりと笑った。
「……面白いわね。共存ではなく、適応を選んだというわけかしら。……いいわ。その”闇”、見せていただきましょう。……もし違ったら、その時は壊してしまうかもしれないわね」
移動は決まった。しかし、それは王が命じたからではない。アシュリーが”選んだ”からだ。主導権は完全にアシュリー側に移っていた。
廊下の曲がり角。
マシューと西棟の従者たちのやり取りを、壁に張り付いて盗み聞きしていた影があった。
ダイアナの放った手の者か、あるいは後宮の他の誰かか。
その影は、震える手で壁をなぞった。
有能と言われるヴィンセント王が気にかけ、その王を相手に条件を出す存在。
(あれは……ただの王女ではない)
後宮に広がる認識が、決定的に変わろうとしていた。
アシュリー・ド・メネス。
彼女は、エシャン王国に迎え入れられた花嫁などではない。
この城の深奥に根を張ろうとしている、得体の知れない”主”なのだという戦慄が、静かに伝播し始めた。
その影は、震える手で壁をなぞった。
――まるで、その向こう側に“何か”がいるのを確かめるかのように。




