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嫁ぎ先が滅びた出戻り王女の再婚〜最強は、だいたい無気力でできている〜  作者: 薄氷薄明


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「空白の聖女」

 後宮は、新たな噂で持ちきりだった。


「東の離れが完成したそうよ」


「完全な闇に包まれた、気味の悪い部屋だとか……」


「しかも、陛下ですら立ち入りを制限されているらしいわ」


 その噂を、後宮の一角で静かに聞いていた者がいる。

 エシャン王国が誇る、教会の象徴たる”聖女”である。

 彼女は生まれながらにして、“穢れ”や“邪気”を感知する異能を持っていた。後宮の女たちが放つ嫉妬や悪意は、彼女の目にはどす黒い靄のように映る。


(……おかしい)


 聖女は、遠く東の離れの方角を見つめて困惑していた。

 後宮の妃たちが、メネスから来た第四王女に陰湿な嫌がらせを続けていることは知っていた。ならば、その王女の周囲には、怨嗟や恐怖といった濃密な“穢れ”が渦巻いているはずだ。

 だが、聖女の異能が感知した東の離れは、あまりにも異様だった。


 ――“無”。


 穢れも、邪気も、生気すらも存在しない。

 まるで、世界からそこだけが切り取られてしまったかのような、完全な空白の静寂が広がっていたのだ。


(あそこには、一体何がいるというの……?)


 弱き王女が虐げられ、ついに人ならざる呪いでも生み出してしまったのだろうか。

 聖女の使命感が、彼女を動かした。



 その夜。

 聖女は単身、完全な闇に沈む東の離れへと足を運んだ。

 魔導具の灯りすら排されたその空間は、一歩踏み入れただけで方向感覚を失いそうになる。


「……誰か、いらっしゃいますか」


 声をかけた、その瞬間だった。

 背後に、音もなく“死”が立った。


「っ……!」


 首筋に冷たい刃のような手刀が当てられている。

 従者のケリーだ。気配はおろか、風の動きすら一切感じさせない、完全なる制圧。聖女は異能を使う暇すらなく、自身の命が完全に相手の手の中にあることを悟った。


「……おやめなさい、ケリー」


 暗闇の奥から、掠れた声が響いた。

 それは、微かな布の衣擦れと共に近づいてくる。


「せっかくの静寂が、騒ぎで汚れてしまうわ」


「……御意」


 ケリーが音もなく引き下がる。

 聖女は荒い息を吐きながら、闇の中に浮かび上がる白い輪郭を見つめた。

 アシュリー・ド・メネス。

 初めて対面するその王女は、異常なほど静かだった。一切の圧がなく、敵意も、警戒心すらない。ただそこに“在る”だけ。


(この方が、アシュリー様……? なぜ、何も感じないの?)


 聖女は震える瞳で、自身の異能を全開にして彼女の“内側”を覗き込もうとした。

 底知れぬ闇が隠れているに違いない。そう思って覗き込んだ聖女の視界に飛び込んできたのは――


 圧倒的な――“何も存在していないはずの空白”だった。


「…………え?」


 聖女の思考が停止した。

 人間であれば、どれほど清廉な者でも、感情の揺らぎや生命の熱という“色”がある。

 だが、目の前の少女にはそれが一切ない。まるで、“最初からこの世界に含まれていなかったもの”のように。


(違う……。これは、穢れではない)


 聖女の防衛本能が警鐘を鳴らす。

 これは“触れてはいけないもの”だ。人間の理解が及ぶ領域の存在ではない。


 恐怖に縛られ、動けなくなる聖女。

 そんな彼女を他所に、アシュリーは部屋の暗闇を見渡し、ぽつりと無邪気に呟いた。


「……ここは、光がなくて、静かでいい場所ね」


 ――その一言が、引き金となった。


 聖女の脳内で、認識が激しく反転する。

 穢れがない。生命の熱すら存在しない。そして、この暗闇を”静かでいい場所(清らかな場所)”と肯定する姿。


(穢れがないのではない。……“浄化されすぎている”のだ……!)


 聖女の異能が、極限の勘違いを引き起こす。

 この何もない空白は、不純物が一切混じっていない証。すなわち、完全なる無垢。

 俗世の垢に塗れた人間には決して到達できない、原初の、絶対的な“神聖”。


「あ……、あぁ……っ」


 聖女は、無意識のうちにその場に膝をつきそうになった。

 目の前にいるのは、虐げられた哀れな王女ではない。現人神にも等しい、穢れなき高位存在だ。

 かろうじて残っていた理性が、完全に平伏することだけは引き留めた。


「……ご用がないなら、お引き取りを。私はもう、眠りたいの」


 アシュリーは聖女の激しい葛藤など全く気づかず、興味なさそうに会話を打ち切った。


「……っ、失礼、いたしました……!」


 聖女は逃げるように、しかし後ずさりしながら、東の離れを離脱した。


 外に出た瞬間、聖女は膝から崩れ落ちた。

 石畳に手をつき、荒い呼吸を繰り返す。


「……あれは、人ではない」


 確信だった。

 だが、彼女の胸を満たしていたのは恐怖ではない。

 圧倒的な超越者を前にした時の、震えるような“信仰に近い感情”が芽生えていた。


 ふと、顔を上げる。

 遠くに見える後宮の灯り。夜会を楽しむ妃たちの笑い声が微かに聞こえる。

 今まで当たり前だったその光景が、聖女の目には異様に“濁って”見えた。

 嫉妬、虚栄、欲望。彼女たちが放つ色が、ひどく泥臭く、不快なものに感じられる。


 聖女の中で、世界の序列が完全に書き換わっていた。


 他の妃たちは、ただの俗物。

 だが、あの方は違う。

 あのアシュリー様こそが、この穢れた王宮において唯一、触れてはならない、至高の存在なのだ。


「……あの方は、私が守らなければ」


 静かな夜の冷気の中、聖女は一人、熱に浮かされたように呟いた。

 それは、新たな信仰の始まり。


 その瞳には、もはや迷いはなかった。

 理解ではなく、ただ確信だけがそこにあった。


 エシャン王国の後宮に、最凶の“狂信者”が誕生した瞬間であった。

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