「有能の盲点と深淵の欠片」
国王執務室。午後の柔らかな陽光がカーテンの隙間から差し込み、豪華な絨毯に長い影を落としている。
机を挟んで座るヴィンセントの顔には、隠しきれない疲労と焦燥が刻まれていた。
「……まずは、昨夜の無理をさせたことを詫びたい。アシュリー殿」
ヴィンセントは努めて冷静な声を出し、傍らに控える側近のマシューに視線を送った。
彼は王として、非の打ち所のない準備を整えていた自負がある。魔法が使えない彼女のための特等室、配慮した数の侍女と護衛、そして毒味済みの三食とおやつ。さらには彼女の生活を彩るための買い付けの案内まで。
「昨夜の宴、貴殿は一滴の水すら口にしなかったと聞いた。……宿での門前払いの件は、我が国の不手際だ。だが、この城に入って一週間。私が用意させた部屋は、相応の平穏は得られているものと思っていたのだが、何か不自由はあるか?」
ヴィンセントの声には、王としてのプライドと、彼女への純粋な”心配”が混ざり合っていた。しかし、アシュリーはヴェールの下で、ひっそりと、どこか他人事のような笑みを漏らした。
「……陛下。少々、前提が食い違っているようでございますわ」
その掠れた、今にも消え入りそうな声。だが、その一言が室内の空気を一変させた。
「お食事がお気に召さないのではありません。……私はこの城に入ってから昨夜に至るまで、エシャン王宮から出されたお食事を、ただの一度も”拝見”すらしておりませんの」
一瞬、室内の時間が止まった。
側近のアロイスが目を見開いて絶句し、マシューの手が震える。
「……一度も、見ていない……? 貴殿は今、何と言った」
「配膳の指示は毎日、滞りなく行われているはず……」
「文字通りの意味ですわ。お部屋に案内されたその日から、私の前に膳が運ばれてきたことはございません。……ああ、別に恨んでいるわけではないのです。私はそれを『他国者への洗礼』なのだろうと察しておりましたが、どなたかに掛け合おうとは思いませんでした。だって、誰も持ってこないということは、この国には私に与える食事など無い、ということでしょう?」
アシュリーは、まるで世間話でもするかのように淡々と続けた。
「誰に聞いたところで、まともな回答など得られない……そう、諦めていただけなのですわ。……ゴホッ」
「な……ッ!?」
アロイスが、悲鳴に近い声を上げた。
「そんな……!? 城に来てから一週間、宿の期間を合わせれば十日以上……! あなたは、この城の中で、ずっと何も食べずにいたというのですか!?」
「アシュリー様! それでは……あなたは緩やかに、死を待っておられたのか!」
ヴィンセントは、椅子に深く背を預けたまま、己の足元が崩れ落ちるような衝撃に打たれていた。
彼は何も悪くなかった。
彼は確かに、彼女とその侍女と従者にまで配慮した部屋を用意し、エシェンの侍女も付け、万全の配膳を命じていた。そして、彼女を守るために精鋭の護衛(灰被り)を放った。
だが——その”有能さ”が、アシュリーという規格外の存在によって、皮肉にも裏目に出ていた。
彼が放った『灰被り』たちは、彼女の安否を確認し、異常を報告するはずの唯一の手段だった。もし彼らが機能していれば、「食事が届いていない」という現場の嫌がらせは初日に王の耳に届き、彼はすぐさま介入できただろう。
しかし、アシュリーの従者たちが”不審者”として彼らをすべて捕らえてしまったことで、王の元には現場の惨状を伝える「目」が一つも無くなってしまったのだ。
「……貴殿が案内された部屋は、私が用意した東の離れではないのか」
「西棟のお部屋でしたわ。……陛下、私はあそこを気に入っておりますの。……私の体質には、何よりの贅沢でございます」
ヴィンセントは、震える手で顔を覆った。
自分が用意した侍女や護衛は、後宮の妃たちによってどこかへ追い遣られ、代わりの案内人が彼女を自分が用意した部屋ではなく、西棟へ放り込んだ。そして、彼女を救うはずだった自分の暗部たちは、彼女の従者によって処理されていた。
有能ゆえに、ヴィンセントは理解した。
彼女は自分を陥れようとした妃たちの悪意を、王の管理不足として責めることもしない。ただ、立っているのも不思議なほどの飢餓に耐えながら、自分の『快適』を守るために、王の差し伸べた手をすべて無意識に叩き斬っていたのだ。
「……アシュリー殿。私は、貴殿のことを見誤っていたようだ。……謝罪の言葉すら、今は空虚に響くが」
ヴィンセントの声には、隠しきれない敬意と、そして戦慄が混じっていた。
「……陛下。どうか、今の私の生活を壊さないでくださいませ。あそこで静かに過ごさせていただけることこそが、私の望みですわ」
アシュリーはそう言い残し、優雅に席を立った。
退室の間際。アシュリーは扉に手をかけたまま、ほんの少しだけ顔を向けた。
「ああ、忘れるところでしたわ。……陛下の『所属』と思われる方々が、西棟の中庭で少々、羽を休めておいでですの。……少しの信頼の証として、お知らせしておきますわね」
その一言に、ヴィンセントの肩が僅かに震えた。
行方不明だった精鋭たちが、アシュリーの”慈悲”によって西棟の闇に飼われていたのだ。
「あの方々の置き場にも困っておりましたから、ちょうど良うございました。……明日にでも、回収して差し上げてくださいませ。それでは、失礼いたします」
アシュリーが去った後。
静まり返った執務室で、ヴィンセントは震える手で顔を覆った。
「……回収、だと……?」
精鋭たちが、一人の病弱な王女に「置き場に困るゴミ」のように扱われ、放置されていた。
有能な王としてのプライドは完膚なきまでに打ち砕かれた。
だが、自分を殺しかけた国を笑って許し、ただ「暗闇」だけを求めるその不可解な深淵に、ヴィンセントは初めて、心からの戦慄と興味を抱いていた。
この女を、放置すれば国が壊れる。だがーー。




