「毒無き饗宴」
小広間には、天井に据えられた巨大な魔導具のシャンデリアから、眩いばかりの光が降り注いでいた。
長テーブルを彩るのは、エシャン王国が誇る最高級の料理と、磨き抜かれた銀食器。だが、その華やかさとは裏腹に、広間を支配しているのは不自然なまでの静寂と、刺すような視線の交錯であった。
「……ゴホッ」
アシュリーが口元にハンカチを当て、僅かに肩を揺らす。昼間のうちにこの会への準備と移動を強いられた名残が、喉の奥に僅かな違和感として残っていた。
「あら、アシュリー様。そんなに酷いお咳ですと、こちらにまで“病気”になってしまいそうですわ。メネスの王女様は、随分と繊細でいらっしゃるのね」
ノル王国の王女ダイアナが、扇の陰から嘲笑を孕んだ声を上げた。周囲の妃たち――イデリーナやメリッサからも、それに同調するような忍び笑いが漏れる。
「……ご安心くださいませ。この咳は移るような類のものではございませんわ。ただ、少し“不慣れな場所”に長く居すぎただけですので」
アシュリーはヴェールの下で、穏やかに、しかし一切の温度を感じさせない声で返した。
「不慣れな場所……お部屋がお気に召さなかったのなら、そうおっしゃればよろしいのに。無能な身分で陛下に縋るのは、さぞかし勇気が要ることでしょうけれど」
ダイアナの容赦ない言葉。
だが、アシュリーは並べられた料理に一指しも触れぬまま、静かに首を傾げた。
「いいえ。とても静かで、快適なお部屋ですわ」
アシュリーは、そこでふと小首を傾げた。
「……あら。そういえば、昨夜は少し困ったことがありましたの」
その一言に、広間の空気が凍りつく。
「捕まえた方の中に、“どこの所属か分からない方”が混じっておりまして。……尋ねても、最後まで何も仰らなかったのですわ」
――静かに、微笑む。
「ですから、どこの国の方か、分からないままになってしまいましたの。少し、残念ですわね」」
アシュリーの不気味な物言いに、妃たちは一瞬、言葉を失って顔を見合わせた。
ヴィンセントの背筋に、冷たいものが走った。
――それは、私の“灰被り”ではないのか。
そして目の前では、食事にも飲み物にも一切手を付けない王女が、今にも消えてしまいそうなほど青白い顔で座っている。
「……アシュリー殿。先ほどから何にも手を付けていないようだが。苦手なものだったか?」
ヴィンセントの声には、王としての威厳よりも、一人の人間としての狼狽が混じっていた。
「……お気遣い、感謝いたしますわ、陛下」
その言葉とは裏腹に、彼女の視線は一瞬だけ、水差しへと落ちた。
「どうした。体調が悪いのか?であれば、喉を潤すべきだろう」
「……陛下、どうかお気になさらず。皆様だけで、この素晴らしい宴をお楽しみくださいませ」
アシュリーは完璧な拒絶の微笑みを浮かべた。
ヴィンセントは、ただ深く頭を抱えるしかなかった。彼の脳裏には、外交問題という名の破滅が現実味を帯びて迫っていた。
「……申し訳ありません。ゴホッ。やはり、少し無理が過ぎたようです。……陛下、中座をお許しいただけますかしら」
アシュリーがゆっくりと席を立つ。その細い体が崩れ落ちるのではないかと、ヴィンセントは思わず身を乗り出した。側近のマシューが、王の合図を受けて素早く歩み寄る。
「アシュリー様、あまりに顔色が優れません。……後ほど、王宮医師を伴って西棟のお部屋へ伺わせてもよろしいでしょうか」
その申し出に、アシュリーの瞳がわずかに細められた。
アシュリーは静かに、しかし断固として首を振った。
「いいえ。お部屋へのお出入りは、どなたもお断りいたしますわ」
「しかし、それでは……。では、せめて明日。体調が落ち着いているようでしたら、執務室までお越しいただけますでしょうか。医師も、そこで待機させます」
マシューの粘り強い提案。アシュリーは内心で小さく頷いた。
(執務室……。ええ、ちょうどいいわね)
「……承知いたしました。明日お伺いいたしますわ」
アシュリーは完璧なカーテシーを披露すると、二人の従者を連れて、静かに、そして優雅に広間を立ち去った。
残されたヴィンセントは、一度も手をつけられなかった豪華な料理を見つめながら、震える手で顔を覆った。
明日の執務室での対面が、彼女との関係を繋ぎ止める最後の手札になるだろうと、彼は悲痛な覚悟を決めていた。




