「勘違いの祝杯」
翌朝。
エシャン王国の後宮は、輝かんばかりの陽光に包まれていた。
魔導具による自動洗浄で磨き上げられた回廊を、色とりどりのドレスを纏った妃たちの使いが忙しなく行き交っている。
後宮を事実上取り仕切るダイアナの元には、朝から香ばしい噂が集まっていた。
「……それで? メネスの王女は、まだあの『物置』から出てこないの?」
「はい、ダイアナ様。扉は閉ざされたままで、中からは話し声一つ聞こえぬと報告が入っております」
ダイアナは、扇の陰で満足げに口元を歪めた。
日当たりの悪い、冷え切った石壁の部屋。明かりも暖炉も点かない暗闇の中で、リネンすら泥にまみれ、従者たちはびしょ濡れで帰されたのだ。魔力を持たぬ病弱な小娘が、一睡もできずに絶望の淵に立たされている姿が目に浮かぶようだった。
「ふふ、あまりに可哀想ですわね。少し『慈悲』を差し上げましょう。……お茶会の招待状を送りなさい。逃げ場のない陽光の下へ、引きずり出して差し上げるのよ」
旧後宮、西棟。
扉の外には、ダイアナの使いである侍女が、勝ち誇ったような顔で立っていた。
「アシュリー様、ダイアナ様より中庭でのお茶会のご招待にございます。王女様方も皆様お揃いですわ。……お返事をいただけますかしら?」
返答はない。ただ、扉の前に彫像のように佇む従者ケリーが、冷ややかな視線を向けるだけだ。そのあまりに隙のない立ち姿に、侍女は一瞬気圧されたが、すぐに「どうせ虚勢だわ」と鼻で笑った。
やがて、扉の奥から、くぐもった、ひどく掠れた声が響いた。
「……コホッ。せっかくのお誘いですけれど、お断りいたしますわ」
その声は、今にも消え入りそうなほど弱々しく聞こえた。侍女は耳をそば立てる。
「……昨夜は、少々『忙しかった』ものですから。……それに、あまり体調が優れませんの。申し訳ありませんとお伝えしてちょうだい」
「……左様でございますか。では、そのようにお伝えいたしますわ」
侍女は、期待通りの答えに内心で快哉を叫んだ。
(忙しかった?)
(ああ、昨晩は絶え間なく放たれた間者や、慣れない暗闇と寒さへの対処で手一杯だったのね。そしてついに、心身ともに限界を迎えて寝込んでしまったというわけだわ!)
侍女が軽やかな足取りで去っていくのを見送り、ケリーは静かに扉を閉めた。
部屋の中は、外界の喧騒が嘘のような完璧な静寂と、濃密な闇に満ちていた。
「……ふぅ。お断りするのも一苦労ね。コホッ。……あんなに眩しいところに行ったら、それこそ倒れてしまうわ」
寝椅子の上で、アシュリーはぐったりとした様子でクッションに顔を埋めていた。
彼女の言う「忙しかった」の真意は、妃たちの想像とは正反対のものだった。
昨夜、後宮の者たちが寝静まった深夜。
アシュリーと二人の従者は、まさに『水を得た魚』のように活動していたのだ。
ケリーは音もなく城の備品庫へ忍び込み、最上級のシルクのリネンと、光を完全に遮断する厚手のタペストリーを”回収”してきた。サリーは城の奥深くにある清浄な水源から、冷え切った一番水を汲んできた。
さらには、部屋の周辺でうろついていた”ネズミ”たちを捕らえ、尋問し、二度と近づけぬよう丁寧に”掃除”して回った。アシュリー自身も、その様子を闇の中から楽しげに眺め、作戦を練っていたのだ。
「アシュリー様、お疲れでございますか。新しいお水です」
「ありがとう、サリー。……夜にお外で遊びすぎたかしら。少し喉がヒリヒリするわ」
アシュリーはサリーが差し出したグラスを受け取り、喉を潤した。
彼女にとっての”体調不良”は、昨夜の活動の疲れと、今まさに窓の外で暴力的なまでの光を放っている太陽への嫌悪感に過ぎない。
「……ダイアナ様たちは、私が泣きながら震えていると思っているのでしょうね。困った方たちだわ」
アシュリーは子どもがいたずらを思いついたような笑みを浮かべると、再び深い闇の中へと潜り込んだ。
その頃、中庭では。
戻ってきた侍女の報告を聞いたダイアナやイデリーナたちが、華やかな笑い声を上げていた。
「あらあら、忙しくて体調不良ですって?」
「きっと一晩中、一睡もできずに震えていたのね。可哀想に」
「これで分かりましたわね。メネスの王女といっても、エシャンの後宮ではただの無力な小娘に過ぎないということが」
彼女たちは、自分たちの”勝利”を確信し、冷え切った紅茶に満足げに口をつけた。
西棟の闇の中に、自分たちの理解を遥かに超えた『怪物』が、至福の休息についていることなど、夢にも思わずに。




