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嫁ぎ先が滅びた出戻り王女の再婚〜最強は、だいたい無気力でできている〜  作者: 薄氷薄明


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「光と、静寂の誓い」

 エシャン王国建国三百年祭の朝は、どこまでも青い空と共にやってきた。


 王都は夜明け前から活気に満ちていた。露店が軒を連ね、祝祭の音楽があちこちから湧き上がり、花びらが石畳に撒かれ、旗が風に翻る。大通りの沿道には朝早くから場所取りをした民衆が鈴なりに並んでいた。「今日こそ奇跡の王妃を見たい」——その声が、あちこちから聞こえた。前日の噂は、一夜にして神話になっていた。


 東の離れ。

 アディリンとダイアナが、アシュリーの支度を巡る最後の攻防を繰り広げていた。


「この遮光ヴェールの重ね方では、動いた際に隙間が——」


「重ねすぎると暑いでしょう。精霊石のブローチをここに——」


「ブローチの遮光半径は三十センチ。万が一には対応できません」


「あんたは心配しすぎ。見た目も考えなさい」


「機能性の前に審美は二の次です」


「……二人とも、少し黙って」


 二人が止まった。

 サリーが静かに最終的な装いを整える。白を基調とした遮光素材を巧みに組み込んだ衣装。この日のためだけに用意されたものだ。

 クロが「キュイ」と一声鳴いた。アシュリーが「今日も留守番よ」と言うと、クロが不満そうな顔をした。


「昨日と同じ顔ね」


「キュ」


「明日たくさん撫でてあげるから」


「……キュ」


「……この子、交渉してる」とダイアナが呟いた。


「条件を出されましたわね」とアディリンが手帳に何かを書いた。


 ヴィンセントが扉口に現れた。


「……準備はいいか」


 アシュリーが立ち上がり、ヴィンセントを見た。


「緊張しているの」


「していない」


「眉間の皺が深いわ」


「……それは平常だ」


「今日は特に深い」


「……分かった、少し緊張している」


「正直ね」


「お前が言い当てるからだ」


 ダイアナが「……なんか、仲いいわね」と窓の外を向きながら呟いた。アディリンが「仲がよろしいようですわ」と手帳に書いた。



 行列が始まった。

 王城の正門が開かれ、ヴィンセントを先頭に、後妃たち、重臣たちが王都の大通りへと歩み出る。

 沿道の民衆が、どよめいた。

 視線は、ヴィンセントの隣を歩く白い人影へと吸い寄せられていた。アシュリーが歩くたびに、沿道の喧騒が、不思議なほどに静まっていった。同心円状に、静寂が広がっていく。


「……疲れていないか」


「今のところ大丈夫。傘、ちゃんと持ってる?」


「……両手で持っている」


「よろしい」


「……監視されている気分だ」


「昨日二回飛ばしたでしょう」


「一回だ」


「視察前に一回、視察中に一回」


「……視察前は計算違いだった」


「理由は聞いていないわ」


 ヴィンセントが押し黙った。沿道の民衆が「……王妃様は陛下に何を言っているのだろう」とこそこそ話すのが聞こえた。

 アシュリーが「賑やかね」と静かに言った。


「ああ」


「……悪くないわ」


 ヴィンセントが、少しだけ口元を緩めた。


 演台は城前広場の中心にあった。

 ヴィンセントが口を開いた。「エシャン王国、建国三百年——」

 その瞬間、風が来た。南西からの——初夏の、何の悪意もない風が。

 増設した屋根の遮光布が、端から一枚、するりと剥がれ落ちた。

 アシュリーが立つ場所に、初夏の陽光が、まっすぐに降り注いだ。



(……また削れる。熱い。でも——行事の途中だわ)


 アシュリーは顔色ひとつ変えずに立っていた。

 その肩から、腕から、指先から——キラキラとした粒子が、ふわりと宙へ舞い上がった。風に乗って、広場全体へと舞い散っていく。まるで、祝福の雪のように。

 広場が静止した。数千人が、一斉に息を止めた。


 次の瞬間——


「——奇跡だ!!」


 誰かの叫びが引き金となった。広場全体が、どよめきと歓声と崇敬の声に包まれた。跪く者。涙を流す者。「神の祝福だ」「守護神だ」——言葉が波のように広がった。


 ヴィンセントが一歩でアシュリーの隣に立ち、外套をその肩に被せた。


「……アシュリー殿」


「……また飛んだわね、布」


「……布は飛んだ。傘は離していない」


「一つだけ正解ね」


「……」


「ありがとう、外套」


 アシュリーの声は静かだった。疲れていた。だが——口元に、かすかな笑みがあった。


「……思ったより、悪くなかったわ、建国祭」


「……また削れただろう」


「少しね。でも、見られたから。……三百年祭」


 ヴィンセントは何も言えなかった。外套を肩に押さえたまま、黙っていた。


 その時、クロが動いた。

 アシュリーの装いの内側でじっとしていた小さな黒い竜が、頭だけをそっと外に出した。黄金の瞳が、広場に満ちた数千の人間を——静かに見渡した。

 群衆の何人かが、その視線に気づいて息を呑んだ。

 クロは何もしなかった。ただ見て——内側に引っ込んだ。


「……留守番のはずでしょう」


「キュ」


「こっそり入ってきたのね、出発前に」


「キュイ」


「……お土産を交渉していたのはそういう意味だったのね」


「キュイキュイ」


「……参加したかったなら最初からそう言いなさい」


 ヴィンセントが「……この竜、本当に会話しているのか」と呟いた。「だいたいね」とアシュリーが答えた。


 ヴィンセントが、民衆の前で声を上げた。


「——エシャン王国建国三百年を、ここに謹んで祝う。この国が三百年の歴史を経てもなお立ち続けるのは、王の力だけによるものではない。この土地に生き、この空の下で声を上げ続けた、すべての民の力によるものだ」


 広場が静かになった。


「そして今日、私はこの場で誓う。この国に生きる民の声と——この王宮に宿る静寂を、何があっても、守り続けると」


 それは建国の誓いだった。だが同時に——それはアシュリーへの言葉でもあった。

 彼女だけが、それを聞いて、静かに目を閉じた。


 帰路、アシュリーがぽつりと言った。


「……ねえ、ヴィンセント」


「なんだ」


「あの誓い、最後の部分」


「……建国の誓いだ」


「そう。……『王宮に宿る静寂』って、誰のこと」


「……」


「誰のことを言っているの」


 ヴィンセントが、しばらく無言だった。


「……誰の、だと思う」


「さあ。あなたが言ったのだから、あなたが知っているでしょう」


「……そういう返し方をするのか」


「正確に答えてほしいわ」


「……分かった。お前のことだ」


「そう」


「それだけか」


「……ありがとう。ちゃんと言ってくれて」


 ヴィンセントが一瞬だけ、固まった。それから「……どういたしまして」と言った。声が、ほんの少しだけ、掠れていた。


 後方を歩いていたダイアナが、アディリンに小声で「……今の聞こえた?」と訊いた。

「聞こえましたわ」とアディリンが手帳に書きながら答えた。


「書くの、それ」


「記録ですわ」


「何の記録よ」


「……『悪くない夫婦』の証左です」


 ダイアナが「……まあ、確かに」と小声で呟いた。

 後方のヘレナが涙を拭きながら「神聖な絆が言葉になった瞬間を……この目で……」と震えていた。

「ヘレナ、泣きながら歩かないで。転ぶわよ」とアシュリーが前を向いたまま言った。


「はい……! アシュリー様に気にかけていただけるとは……! また涙が……!」


「転ぶって言っているの」


「はい……!」


 行列の最後尾で、アロイスとデリクが小声を揃えた。


「……いつも通りですね」


「……いつも通りですね」


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