表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
嫁ぎ先が滅びた出戻り王女の再婚〜最強は、だいたい無気力でできている〜  作者: 薄氷薄明


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

47/47

「出戻り王女の、静かな居場所」

 建国祭から、ひと月が経っていた。


「灰の奇跡」の話は、祭典の翌日から大陸中に広まり始めた。教会を通じて北の聖王国に届き、商人ルートで南の港町にまで届き、吟遊詩人が「建国の光女」という歌にして歌い始めた、という噂まで流れてきた。

 ヘレナが「ついにアシュリー様の奇跡が大陸規模で認知されました……! 公式に聖跡として申請を……!」と法悦に打ち震えながらやってきた。


「それは要らないわ」


「……アシュリー様のご意思は絶対ですわ……」


 ヴィンセントが「巡礼者が来ないよう手を打つ」と言い、アロイスが「すでに動いております」と答えた。

 マシューが「陛下、教会からの書状が十二通……」と言いかけて、ヴィンセントの顔を見て「後日にいたします」と引き下がった。

 王宮の日常が、また一つ、新しい形に落ち着いていった。



 その日の午後。

 東の離れに、珍しい静けさが満ちていた。ダイアナが城下に出かけており、アディリンが資料室で書類整理中で、ヘレナが礼拝中だった。

 アシュリーとヴィンセントとクロだけが、部屋にいた。

 ヴィンセントが掌に短剣を当てようとすると、アシュリーが「今日は飲みたくないわ」と言った。


「……そうか」


「ただ、話したい気分なの」


「……珍しいな」


「そうかしら」


「ああ。お前から話しかけてくることは、少ない」


「……あなたが来るから、私が話しかけなくてもいいじゃない」


「……それはそうだが」


「毎日来るのね、あなた。用もないのに」


「……用がある時もある」


「クロの食事と外交報告でしょう。その二つを除いたら、だいたい用がない」


 ヴィンセントが、少し間を置いた。「……否定しない」


「正直ね」


「お前に嘘をついても意味がない」


「そう。……じゃあ正直に聞くわ。なぜ来るの、用もないのに」


 ヴィンセントが、今度は少し長く間を置いた。


「……ここが、落ち着く」


「この部屋が?」


「……お前がいるから、落ち着く」


 アシュリーが、静かにヴィンセントを見た。ヴィンセントが視線を逸らさなかった。


「……変なことを言うのね」


「変で結構だ」


「……私も、あなたがいると静かよ。だからまあ、いいけれど」


「……それは、歓迎されているということか」


「追い出すつもりがないという意味よ。同じことだけど」


 ヴィンセントが短く笑った。アシュリーがその笑い声を聞いていた。


「……あなた、笑うと少し人間らしいわね」


「失礼だな」


「褒めているのよ」


「……毎回そう言う」


「毎回本当のことを言っているから」


 夕刻になって、ダイアナが市場から戻ってきた。何でもない様子を装った小さな袋を持っていた。


「……今日、静かじゃない」


「アディリンは資料室、ヘレナは礼拝」


「……そう」


 ダイアナが部屋を見渡し、ヴィンセントとアシュリーとクロという構図に何か言いたそうな顔をした。それから「……まあいいか」と言って窓際の椅子に腰を下ろした。


「アシュリー、市場で噂を聞いたわ」


「奇跡の王妃でしょう」


「そう。吟遊詩人が歌にしてたわよ。『建国の光女』ってやつ。……悪くなかった」


「……そう」


「怒らないの?」


「特に。あなたたちが良いと思うなら、それでいいわ」


 ダイアナが少し意外そうな顔をした。それから「……変な女ね」と言って窓の外を向いた。少しの沈黙の後、袋を差し出した。


「……遮光の薬草茶。体にいいって聞いたから」


「ありがとう」


「アディリンに頼まれた」


「アディリンは今日、市場に行っていないわよ」


「……うるさい」


 ダイアナが顔を背けた。耳が赤かった。


 ほどなくして、アディリンが資料室から戻ってきた。手帳を持ったまま部屋に入り、様子を見渡して手帳を閉じた。


「……今夜は特別な調整は不要そうですわね」


「珍しいことを言うのね、あなたが」


「データより感覚が優れる場合も、ごく稀にありますわ。——ダイアナ殿下、その薬草茶は私が選定したものではありませんが、成分的には問題ありません」


「…………頼んでないって言ったでしょう」


「言っていません。ただ、選定情報を共有しただけですわ」


「絶対頼んでない!」


「……二人とも、少し黙って」


 二人が止まった。クロが「キュイ」と鳴いた。ヴィンセントが苦笑した。アシュリーが目を閉じた。


 ヘレナが礼拝から戻ってきた。扉を開けるなり「アシュリー様!」と声を上げかけて、ケリーに首根っこを掴まれた。「お静かに」。ヘレナが「分かっていますわ」と囁き声で言いながら、それでも嬉しそうに加湿器を確認した。「当日の奇跡の余韻が……聖域の濃度が上がっておりますわ……」と一人で感激していた。

 全員が揃った部屋で、アシュリーはソファに沈んだまま目を閉じていた。

 ヴィンセントが隣に座っている。クロが膝の上にいる。ダイアナが窓際で足を組んでいる。アディリンが端の椅子で手帳を書いている。ヘレナが加湿器を愛でている。サリーとケリーが音もなく控えている。

 騒がしいわけではない。でも、静かでもない。

 これは——地下牢の静寂とは全く違う種類の「静けさ」だ。


(……悪くないわ、ここ)


 それ以上は言葉にならなかった。でも、それでよかった。言葉にする必要のないことは、言葉にしなくていい。


「……ヴィンセント」


「なんだ」


「この国、悪くないわ」


 ヴィンセントが、少し動きを止めた。


「……そうか」


「あなたも、悪くない」


「……光栄だな」


「褒めているのよ、ちゃんと」


「分かっている。……お前も、悪くない」


 アシュリーが、目を閉じたまま少し間を置いた。


「……似た者同士だろう」


「そうね」


「……悪くない、似た者同士だ」


 アシュリーが短く息を漏らした。笑ったのかどうか、ヴィンセントには分からなかった。でも、それ以上何も言わなかったから——悪くはなかったのだと、彼には思えた。


 クロが「キュイ」と小さく鳴いた。

 ダイアナが「……なんで私、ここにいるんだろ」と呟いた。

 アディリンが「最適な判断をされたからですわ」と手帳から顔を上げずに答えた。

 ヘレナが「必然ですわ……」と遠い目で言った。

 ヴィンセントが静かに笑った。

 アシュリーが、目を閉じた。


 窓の外で、夜が深まっていく。

 王都の灯りが、遠くに見える。世界は今日も、どこかで喧騒に満ちている。

 だがこの部屋の中だけは——アシュリーが眠っている間だけは——世界で最も静かな場所であり続けた。


 二度の縁談で嫁ぎ先の国が滅びた、いわく付きの第四王女。地下牢で静かに過ごしていた病弱な王女。誰もが近づかない、遠ざかる——そのはずだった彼女は。

 三度目の政略結婚の果てに、王の血を飲み、知性ある竜を膝に乗せ、狂信者と元敵と皇女に囲まれながら、今夜もここで静かに眠っている。

 そしてその眠りを——誰も、邪魔しようとは思わなかった。


 アシュリー・ド・メネスは、ここに居場所を見つけた。

 それは誰かが用意した場所ではなく、知らないうちに周囲が作り上げた、歪で完璧な「静寂」だった。

 彼女は今夜も、その静寂の中で、幸せそうに目を閉じている。


 ちなみにその翌朝、エレベルからの手紙が届いた。

「姉上、奇跡の話、聞きました。建国祭で灰になったそうで——僕だけ見ていないのが遺憾ですね。次の訪問、少し早めます。ヴィンセント陛下にも、よろしくお伝えください」

 ヴィンセントが手紙を読み終えた後、長い沈黙があった。

 アシュリーが「どうしたの」と問うと、「……胃薬を取ってきてもいいか」と言った。


「どうぞ」


「……お前は平気なのか」


「エレベルは弟だもの。別にいいわ」


「……そういうものか」


「あなたの胃が心配なのは分かるけれど。……エレベルは、あなたのことを気に入っているわよ。多分」


「多分、か」


「確実に、とは言いにくいわ、あの子は」


 ヴィンセントが深く息を吐いた。アシュリーが「胃薬、取ってきてあげようか」と言った。


「いい。……自分で行く」


「珍しいわね」


「……動かないと、余計に胃が痛い」


「そういうもの?」


「そういうもの、だと思う」


 アシュリーが「そう」と言って目を閉じた。ヴィンセントが立ち上がりながら「戻ってくる」と言った。


「ええ」


「……すぐ戻る」


「分かってるわ」


 足音が遠ざかる。クロが伸びをして、また丸まった。

 アシュリーは目を閉じたまま、微かに口元を緩めた。

 それが、この二人の——悪くない日常だった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

アシュリーとヴィンセント、そしてこの騒がしくも温かな王宮の人々の物語を、楽しんでいただけたなら幸いです。

評価・ブクマをいただけると、作者の次の物語への大きな力になります。

また別の物語でお会いできる日を、心よりお待ちしております。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ