「出戻り王女の、静かな居場所」
建国祭から、ひと月が経っていた。
「灰の奇跡」の話は、祭典の翌日から大陸中に広まり始めた。教会を通じて北の聖王国に届き、商人ルートで南の港町にまで届き、吟遊詩人が「建国の光女」という歌にして歌い始めた、という噂まで流れてきた。
ヘレナが「ついにアシュリー様の奇跡が大陸規模で認知されました……! 公式に聖跡として申請を……!」と法悦に打ち震えながらやってきた。
「それは要らないわ」
「……アシュリー様のご意思は絶対ですわ……」
ヴィンセントが「巡礼者が来ないよう手を打つ」と言い、アロイスが「すでに動いております」と答えた。
マシューが「陛下、教会からの書状が十二通……」と言いかけて、ヴィンセントの顔を見て「後日にいたします」と引き下がった。
王宮の日常が、また一つ、新しい形に落ち着いていった。
その日の午後。
東の離れに、珍しい静けさが満ちていた。ダイアナが城下に出かけており、アディリンが資料室で書類整理中で、ヘレナが礼拝中だった。
アシュリーとヴィンセントとクロだけが、部屋にいた。
ヴィンセントが掌に短剣を当てようとすると、アシュリーが「今日は飲みたくないわ」と言った。
「……そうか」
「ただ、話したい気分なの」
「……珍しいな」
「そうかしら」
「ああ。お前から話しかけてくることは、少ない」
「……あなたが来るから、私が話しかけなくてもいいじゃない」
「……それはそうだが」
「毎日来るのね、あなた。用もないのに」
「……用がある時もある」
「クロの食事と外交報告でしょう。その二つを除いたら、だいたい用がない」
ヴィンセントが、少し間を置いた。「……否定しない」
「正直ね」
「お前に嘘をついても意味がない」
「そう。……じゃあ正直に聞くわ。なぜ来るの、用もないのに」
ヴィンセントが、今度は少し長く間を置いた。
「……ここが、落ち着く」
「この部屋が?」
「……お前がいるから、落ち着く」
アシュリーが、静かにヴィンセントを見た。ヴィンセントが視線を逸らさなかった。
「……変なことを言うのね」
「変で結構だ」
「……私も、あなたがいると静かよ。だからまあ、いいけれど」
「……それは、歓迎されているということか」
「追い出すつもりがないという意味よ。同じことだけど」
ヴィンセントが短く笑った。アシュリーがその笑い声を聞いていた。
「……あなた、笑うと少し人間らしいわね」
「失礼だな」
「褒めているのよ」
「……毎回そう言う」
「毎回本当のことを言っているから」
夕刻になって、ダイアナが市場から戻ってきた。何でもない様子を装った小さな袋を持っていた。
「……今日、静かじゃない」
「アディリンは資料室、ヘレナは礼拝」
「……そう」
ダイアナが部屋を見渡し、ヴィンセントとアシュリーとクロという構図に何か言いたそうな顔をした。それから「……まあいいか」と言って窓際の椅子に腰を下ろした。
「アシュリー、市場で噂を聞いたわ」
「奇跡の王妃でしょう」
「そう。吟遊詩人が歌にしてたわよ。『建国の光女』ってやつ。……悪くなかった」
「……そう」
「怒らないの?」
「特に。あなたたちが良いと思うなら、それでいいわ」
ダイアナが少し意外そうな顔をした。それから「……変な女ね」と言って窓の外を向いた。少しの沈黙の後、袋を差し出した。
「……遮光の薬草茶。体にいいって聞いたから」
「ありがとう」
「アディリンに頼まれた」
「アディリンは今日、市場に行っていないわよ」
「……うるさい」
ダイアナが顔を背けた。耳が赤かった。
ほどなくして、アディリンが資料室から戻ってきた。手帳を持ったまま部屋に入り、様子を見渡して手帳を閉じた。
「……今夜は特別な調整は不要そうですわね」
「珍しいことを言うのね、あなたが」
「データより感覚が優れる場合も、ごく稀にありますわ。——ダイアナ殿下、その薬草茶は私が選定したものではありませんが、成分的には問題ありません」
「…………頼んでないって言ったでしょう」
「言っていません。ただ、選定情報を共有しただけですわ」
「絶対頼んでない!」
「……二人とも、少し黙って」
二人が止まった。クロが「キュイ」と鳴いた。ヴィンセントが苦笑した。アシュリーが目を閉じた。
ヘレナが礼拝から戻ってきた。扉を開けるなり「アシュリー様!」と声を上げかけて、ケリーに首根っこを掴まれた。「お静かに」。ヘレナが「分かっていますわ」と囁き声で言いながら、それでも嬉しそうに加湿器を確認した。「当日の奇跡の余韻が……聖域の濃度が上がっておりますわ……」と一人で感激していた。
全員が揃った部屋で、アシュリーはソファに沈んだまま目を閉じていた。
ヴィンセントが隣に座っている。クロが膝の上にいる。ダイアナが窓際で足を組んでいる。アディリンが端の椅子で手帳を書いている。ヘレナが加湿器を愛でている。サリーとケリーが音もなく控えている。
騒がしいわけではない。でも、静かでもない。
これは——地下牢の静寂とは全く違う種類の「静けさ」だ。
(……悪くないわ、ここ)
それ以上は言葉にならなかった。でも、それでよかった。言葉にする必要のないことは、言葉にしなくていい。
「……ヴィンセント」
「なんだ」
「この国、悪くないわ」
ヴィンセントが、少し動きを止めた。
「……そうか」
「あなたも、悪くない」
「……光栄だな」
「褒めているのよ、ちゃんと」
「分かっている。……お前も、悪くない」
アシュリーが、目を閉じたまま少し間を置いた。
「……似た者同士だろう」
「そうね」
「……悪くない、似た者同士だ」
アシュリーが短く息を漏らした。笑ったのかどうか、ヴィンセントには分からなかった。でも、それ以上何も言わなかったから——悪くはなかったのだと、彼には思えた。
クロが「キュイ」と小さく鳴いた。
ダイアナが「……なんで私、ここにいるんだろ」と呟いた。
アディリンが「最適な判断をされたからですわ」と手帳から顔を上げずに答えた。
ヘレナが「必然ですわ……」と遠い目で言った。
ヴィンセントが静かに笑った。
アシュリーが、目を閉じた。
窓の外で、夜が深まっていく。
王都の灯りが、遠くに見える。世界は今日も、どこかで喧騒に満ちている。
だがこの部屋の中だけは——アシュリーが眠っている間だけは——世界で最も静かな場所であり続けた。
二度の縁談で嫁ぎ先の国が滅びた、いわく付きの第四王女。地下牢で静かに過ごしていた病弱な王女。誰もが近づかない、遠ざかる——そのはずだった彼女は。
三度目の政略結婚の果てに、王の血を飲み、知性ある竜を膝に乗せ、狂信者と元敵と皇女に囲まれながら、今夜もここで静かに眠っている。
そしてその眠りを——誰も、邪魔しようとは思わなかった。
アシュリー・ド・メネスは、ここに居場所を見つけた。
それは誰かが用意した場所ではなく、知らないうちに周囲が作り上げた、歪で完璧な「静寂」だった。
彼女は今夜も、その静寂の中で、幸せそうに目を閉じている。
ちなみにその翌朝、エレベルからの手紙が届いた。
「姉上、奇跡の話、聞きました。建国祭で灰になったそうで——僕だけ見ていないのが遺憾ですね。次の訪問、少し早めます。ヴィンセント陛下にも、よろしくお伝えください」
ヴィンセントが手紙を読み終えた後、長い沈黙があった。
アシュリーが「どうしたの」と問うと、「……胃薬を取ってきてもいいか」と言った。
「どうぞ」
「……お前は平気なのか」
「エレベルは弟だもの。別にいいわ」
「……そういうものか」
「あなたの胃が心配なのは分かるけれど。……エレベルは、あなたのことを気に入っているわよ。多分」
「多分、か」
「確実に、とは言いにくいわ、あの子は」
ヴィンセントが深く息を吐いた。アシュリーが「胃薬、取ってきてあげようか」と言った。
「いい。……自分で行く」
「珍しいわね」
「……動かないと、余計に胃が痛い」
「そういうもの?」
「そういうもの、だと思う」
アシュリーが「そう」と言って目を閉じた。ヴィンセントが立ち上がりながら「戻ってくる」と言った。
「ええ」
「……すぐ戻る」
「分かってるわ」
足音が遠ざかる。クロが伸びをして、また丸まった。
アシュリーは目を閉じたまま、微かに口元を緩めた。
それが、この二人の——悪くない日常だった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
アシュリーとヴィンセント、そしてこの騒がしくも温かな王宮の人々の物語を、楽しんでいただけたなら幸いです。
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また別の物語でお会いできる日を、心よりお待ちしております。




