「擬態と正直」
建国祭まで、あと三日。
東の離れでは、アディリンが遮光計画の最終調整に余念がなく、ダイアナは精霊石のブローチを磨き上げ、ヘレナは加湿器に聖水を一滴垂らしながら「これで参道が浄化されますわ……」と恍惚とした表情で呟いていた。
アシュリーはソファに深く沈んだまま、膝の上のクロを撫でてその喧騒を眺めている。その向かいでは、ヴィンセントが特に何をするでもなく、アディリンの計算書類に目を通すふりをして座っていた。
かつて彼がここを訪れる理由は「クロの食事」か「外交報告」に限られていた。しかし最近では、特に理由もなく現れ、ただ静かに座っている時間が増えている。アシュリーはそれを「まあいいか」と受け入れていた。意外にも、この男が居座っていると場が妙に静まるのだ。本来は周囲を騒がせる立場の王が、今や東の離れの静寂に馴染む「装置」の一部になりつつあった。
「アシュリー様は、本当にお水がお好きですね」
アディリンが手帳から顔を上げずに言った。「建国祭当日も、多めにご用意しましょうか。日差しも強く、暑くなりますでしょうし」
その瞬間、控えていたサリーの手が僅かに止まった。
アシュリーは一拍の間を置き、いつものように気だるげに告げた。
「……サリー、いつものを」
「はい、お嬢様」
「アシュリー様、『いつもの』とは? 私の記録では一日の水分摂取量は適正なはずですが……」
アディリンのペンが止まった。灰色の瞳が、逃がさない角度でアシュリーを射抜く。
アシュリーはクロの背をなぞりながら、隠す気もなさそうにあっさりと言い放った。
「水は人前で飲むだけの、ただの『擬態』よ。あなたたちが見ているから、人間らしくしていただけ。私にとって本当に必要なものは、血だから」
静寂が部屋を支配した――もっとも、固まったのはアディリンだけである。
「……あー、やっぱりそうだったのね。あんた、全然美味しそうに飲まないもの」
ダイアナが、納得したように呟いた。
「存じておりますわ。あの方の清らかなお体は、水ごときでは満たされませんもの」
ヘレナが、静かに深く頷いた。
「……知っていた。気づかないふりをするのが、この場のマナーだと思っていたが」
ヴィンセントが、遠い目で天井を仰いだ。
「え……え? 皆様、ご存知だったのですか!? 私だけ……! 管理者失格ですわ……! 手帳に水の消費量を分単位で……!」
アディリンは手帳を震える手で開き、「水:一日二杯(推定)」と書かれたページをじっと見つめ、ゆっくりと線を引いて書き直した。
『水 = 社会的擬態行動(確定)』
「アディリン、あなた……今日から管理日誌を書き直すの?」
「一から、全て書き直しますわ。アシュリー様を正しく管理する責任がありますもの」
「……本当にご苦労様」
衝撃を真正面から受け止め、即座に「真実」として処理し始めるアディリンのペン先は、僅かに震えていた。
「それで、血は――」 ダイアナが、赤くなった顔を背けながら続けた。「自分じゃ飲めないんでしょ。牙がないんだから」
「そうよ。だから注いでもらうのよ、グラスに」
「誰に?」
全員の視線が、自然とヴィンセントに集まった。
ヴィンセントは短く、「……私だ」とだけ答えた。
「なぜ陛下なのですか?」
アディリンが素早く手帳を更新しながら訊ねる。
「……最初は外で血を探されるよりは……と、アシュリーに血をあげる約束して、それは誰でもよかったんだ。ただ、その都度揉めるのでな」
「揉める、とは?」
「ヘレナが『私が提供します!』と毎回叫ぶのを止めるのに、あまりに時間がかかる。ならば私が最初から用意した方が効率的だという結論になった」
全員がヘレナを見た。彼女は穏やかな、それでいて狂気に満ちた微笑みを浮かべていた。
「聖女として、アシュリー様のお体に必要な糧をご提供するのは当然の義務。神聖な行為ですわ」
「……で、どう説得したのよ」
ダイアナが興味津々に身を乗り出す。
「ヘレナが『私の血を捧げます!』と言い張り、私が『待て』と止める。彼女が『なぜ陛下が止めるのですか!』と食い下がるので、『お前が貧血で倒れたら、その世話でアシュリーの安眠が損なわれる』と諭したのだ。そうしたら三秒で納得した」
「……陛下、意外と説得上手ですわね」
アディリンが冷静に手帳に記した。
「ヘレナを動かすにはアシュリーに関する利害を説くのが一番早い。それを使っただけだ」
「黙って」 アシュリーがぼそりと呟くと、ヘレナは即座に「はい」と静かになった。
「……あなたじゃないといけない理由は、本当はないのよ。ヴィンセント」
「ああ、分かっている」
「でも、あなたのが一番。それに、「くれる」と言ったから、それでいいわ」
部屋が再び、しんとした静寂に包まれた。
それは告白なのか、生存本能の吐露なのか。
ヴィンセントは一瞬だけ固まり、理性を全て棚上げにした「照れと誇りと独占欲」が入り混じった複雑な表情を、わずか〇・三秒だけ見せた。
「……そうか」
彼の声は、ほんの少しだけ低く、熱を帯びていた。
「あんた、もう少し言い方考えなさいよ!」
ダイアナが顔を真っ赤にして叫び、アディリンは冷静に『王の血は体質的に最適と本人が認識。精神的な嗜好との区別は不明』と記録した。
その夜。
ヴィンセントが短剣で掌を一筋切り、グラスに血を注いだ。アシュリーはそれをゆっくりと飲み干し、クロが横からヴィンセントの掌を愛おしそうに舐めた。
「……お前も飲むか」
「キュ」
「……どういう意味だ?」
「『飲んだ』って言ったんじゃないかしら。なんとなく分かるのよ」
アシュリーは平然と言い、ヴィンセントを見上げた。
「……あなたはたぶん、羊ね。逆らわないでしょう、最終的に」
「……一言余計だ」
「正確なだけよ」
儀式が終わり、ヴィンセントが包帯を巻くと、クロが二人の間に割り込んで丸まった。それが、最近の「いつもの夜」だった。
「……ねえ、ヴィンセント」
「なんだ」
「演技をしていたこと、責めないのね」
「……責める理由がない。お前がお前として、ここで平穏に過ごしているのなら、それでいい」
「……そう。……ただ、あなたにだけは、最初から言えばよかったかもしれないわね。薄々分かってたにしても」
ヴィンセントが動きを止めた。
「次からは、ちゃんと言うわ。あなたには」
「……そうしてくれると、ありがたい」
「……あなたは、変なことを言っても変な顔をしないから」
ヴィンセントは少しだけ微笑んだ。「……私は変なことを言った覚えはないが」
「『傍にいる』って、二回も言ったわよ」
「……それは、変なことではないだろう」
「そうね」 アシュリーは静かに目を閉じた。
建国祭まであと三日。歪な絆は、誰にも邪魔されない闇の中で、より深く、静かに溶け合っていた。




