「建国祭の準備と、昼間という難題」
エレベルという名の美しき猛毒がエシャンを去ってから、数週間が経っていた。
廊下を歩くたびに「今日も首が繋がっている」と安堵しなくて済むようになったという意味では、エシャン王宮はようやく人心地ついた静けさを取り戻しつつあった。側近たちの目の下の隈は目に見えて薄くなり、宰相マシューが書類を処理する速度はかつての精緻さを取り戻し、騎士団長アロイスが「今日は命のやり取りがない普通の会議だ」と当たり前のように言える日常が、そこにはあった。
だが、その束の間の平和は、一通の内部文書によって静かに、しかし決定的に揺らぐこととなる。
「建国祭の準備状況を報告いたします」
国王執務室。マシューが、分厚い書類の束を机の上に整然と置いた。ヴィンセントは羽ペンを止め、顔を上げる。
「今年で建国三百周年を迎えます。規模は例年の三倍を予定。王都の大通りを使った公式行列、城前広場の演台での『建国の誓い』、夜には大規模な魔導花火と祝宴――。開始は午前十時。すべて、真昼間に行われます」
「……分かっている。続けろ」
ヴィンセントの声が、僅かに低くなった。マシューは一拍置き、眼鏡の奥の瞳に同情の色を滲ませながら続けた。
「后妃殿下方の参加についてですが、アディリン殿下は既に快諾。ダイアナ殿下は渋々ながらも承諾済み。ヘレナ様は……もちろん、喜び勇んで聖水を撒く準備を。……そして、アシュリー殿下についても、節目の大祭ということで、正式なご出席を願う声が各方面から上がっております」
執務室に、重苦しい静寂が落ちた。
アロイスが天井を見上げ、副官のデリクが羽ペンを止める。誰も何も言わなかった。全員が同じことを考えていたからだ。
『昼間』という二文字が、あの東の離れに眠る王女にとって、何を意味するかを。
「……打診だけしてみる」
「御英断でございます」
マシューが深々と頭を下げた。デリクが恐る恐る手を挙げる。
「陛下。アシュリー殿下が昼間の行列に出席なさる場合、その……日差しへの対策は」
「する。演台に巨大な屋根を増設し、行列経路には遮光布を張り巡らせる。そして、日傘は私が持つ」
「……陛下が、自ら日傘を?」
「私が持つと言った。何か問題があるか」
「いえ、国王陛下が建国記念の式典でずっと日傘を捧げ持っている絵面が、その……あまりにも”過保護”かと思いまして……」
「問題ない。それ以外に何かあるか」
側近たちの間に、「もうこれはそういうものだ」という、諦めにも似た共通認識が確立された瞬間であった。
東の離れ。
ヴィンセントが扉を叩くと、「どうぞ」というアシュリーの掠れた声が返ってきた。
ソファの上で、アシュリーは小竜クロを膝に乗せたまま、ぼんやりと天井の闇を眺めていた。
「建国祭の話だな」
「……なぜ分かるの」
「足音が重いわ。……それに、外が騒がしくなり始めているもの」
ヴィンセントはアシュリーの傍らに腰を下ろした。
「三百周年の大祭なんだ。昼間の公式行列に出てほしい」
「……昼間。……太陽が一番高い時間ね」
「……ああ」
沈黙が流れる。アシュリーは自分の白い指先を見つめた。
「出たら、削れるわよ」
「……分かっている」
アシュリーが言う「削れる」とは、文字通りの意味だ。吸血鬼の先祖返りである彼女の肌は、直射日光を浴びれば灰となって崩れ、光の粒子となって空へ散る。かつて門前払いされた際、人々が『聖女の輝き』と称賛したものは、彼女の命の欠片であった。
「あなたが、また胃薬を飲む量が増えるわね。……それでも、来たの?」
「……ああ。お前が一度もこの国の外を見たことがないのが、気になっていたんだ。……建国祭は、民が旗を振って声を上げる。賑やかで……うるさいが」
「エレベルが一季節いた時よりは静かかしら?」
「……それは比較対象が悪すぎる」
アシュリーはクロの背を撫でながら、少しだけ考えた。
「……善処するわ。……一度くらい、見てみたい気がするもの」
その言葉に、ヴィンセントは小さく息を吐いた。彼女が示した”興味”は、初めて自分から外界へ手を伸ばした瞬間のように感じられたからだ。
翌日、東の離れは作戦会議室と化した。
アディリンが持ち込んだのは、精密な”遮光計画図”である。
「直射区間を行列経路から可能な限り排除しましたわ。屋根の追加素材は、帝国の最新遮光絹を使用します。……陛下、日傘の保持角度は四十五度を維持してくださいませ」
「当然の措置ですわ」とアディリンが言えば、ダイアナが「帝国の女は理屈っぽいわね」と鼻を鳴らしつつも、パレード用の鉄壁な警備布陣を自ら組み直していた。
ヘレナに至っては「アシュリー様の御足が触れる地面を聖水で清め、加湿器の霧で日差しを屈折させますわ!」と鼻息を荒くしている。
「ヘレナ。加湿器を持ってパレードに出るのはやめなさい」
「……善処いたします!」
「それ、私のセリフね……」
アシュリーの横で、クロが『キュイ』と一声鳴いた。その黄金の瞳は、まるで「この中で一番賢いのは僕だ」と言わんばかりに輝いている。
その夜、ヴィンセントは一人執務室に残り、ある書状を眺めていた。
エルダリア帝国からの親書だ。内容は、建国祭の場でアシュリーを公式に引き渡せという、不当極まりない要求であった。
(……アシュリーの輝きを、魔導資源だと勘違いしているのか。愚かな)
ヴィンセントは黙ってその書状を折り畳み、机の奥深い引き出しの隅へと押し込んだ。
誰にも、触れさせはしない。
彼は机の端に置かれた、アシュリーに持っていく予定だった水差しを見つめた。
彼女が水を飲むのが”社会的擬態”であることは、もう薄々分かっている。彼女の真の糧は、自分の腕に巻かれた包帯の下、この血であることを。
(それでも、私は水を運ぶのをやめられないのだ。……あの子が水を飲む仕草をするたびに、私は、彼女が『こちら側の世界』に留まってくれているような気がして、安心してしまうんだ)
胃が痛む。
もし遮光布が剥がれたら。もし日傘が風で飛ばされたら。
彼女は、光の粒子となって、自分の指の間から消えてしまう。
「……離さん。風が吹いても、絶対に離さんぞ」
ヴィンセントは、自分自身に言い聞かせるように呟き、執務室の灯りを落とした。
建国祭まで、あと三日。
それは、世界一騒がしい祝祭の皮を被った、世界一静かな相棒を守り抜くための、王の戦いの始まりであった。
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