「猛毒の帰還と、初夏の深い溜息」
エシャン王国にメネスの第三王子・エレベルが滞在し始めてから、季節が一つ、丸ごと過ぎ去った。
春の終わりに「姉上の様子を見にきた」と軽やかに現れた美貌の暗殺王子が、ようやく帰国の準備を始めたのは、初夏の爽やかな風が王都の並木道を揺らす頃である。
きっかけは、メネス王国から届いた父王ガドフリーの親書であった。その内容は、公的な外交文書とは思えぬほど簡潔かつ、切実なものであった。
『エレベル。帰ってこい。お前がいない間に積み上がった書類の山を、誰が処理すると思っているのだ。アシュリーは問題ないだろう。これ以上エシャンの胃壁を削る前に、さっさと帰れ。』
書状を読み終えたエレベルは、しばらく無言で窓の外を眺めていたが、やがて優雅な溜息一つとともにそれを丁寧に折り畳んだ。
「……お父様は、相変わらず情緒というものがありませんね。僕がここでどれほど姉上との絆を深めていたと思っているのでしょう」
その独り言を廊下の角で「護衛」という名の監視中に盗み聞いた近衛騎士団長アロイスは、その足で執務室へと全速力で駆け込んだ。
「陛下! メネスよりエレベル殿下に帰国命令が下されました!」
アロイスの報告に、ヴィンセントは山積みの書類から顔を上げた。ペンを止めたまま、一拍、二拍。
そして、深く、重く、肺の底に溜まっていた澱をすべて吐き出すような吐息を漏らした。
「……よかった。本当によかった」
絞り出すようなその二文字には、この三ヶ月間、いつ背後から清掃されるか分からぬ圧迫感に耐え続けた男の、真実の響きがあった。
執務室にいた側近たちも、一斉に天を仰ぐ。あるいは胸を撫で下ろす。その場の全員が、戦場から生還した兵士のような、奇妙な連帯感に包まれていた。
(……やっと、あの笑顔の悪魔が帰る)
彼らにとってのエレベルは、アシュリーを敬愛する弟である前に、気づけば誰かがトランクに入れられているのではないかという恐怖の象徴であったのだ。
翌朝。東の離れの前庭には、メネス王国の紋章を戴いた漆黒の馬車が滑り込んだ。
初夏の朝陽を浴びて、エレベルはアシュリーの手をそっと取り、宝物でも扱うかのような手つきでその甲に唇を寄せた。
「……アシュリー姉様。本当は、エシャンをメネスの属国にしてでもここに居座りたかったのですが。お父様が泣いて書類を抱えているそうなので、一時帰国いたします」
「……一季節も居たでしょう。もう十分よ、エレベル」
アシュリーは相変わらずの無気力な様子で、空いた方の手で軽く咳き込んだ。その華奢な肩を、エレベルは愛おしそうに見つめる。
「ふふ。……手紙は毎日、ですよ? 返事が一通でも途絶えたら、僕は仕事をすべて放り出してここへ来ます。今度は軍を引き連れて、もっと長く」
「……それは困るわ。郵便屋さんが気の毒でしょう」
「では、毎日書いてくださいね。約束ですよ」
エレベルは満足げに微笑むと、ようやく姉の手を離した。そして踵を返したその途中、壁にもたれて腕を組んでいたヴィンセントの前で、音もなく足を止めた。
見送りというよりは、獲物が檻に入るまで見届ける監視員のような顔をした男を、エレベルは黄金の瞳で射抜く。
「……陛下。姉様をよろしくお願いします。あの人は、自分では何も言いませんから。……不手際があれば、僕が代わりにあなたの王宮を”お掃除”しに来ます」
「……言われるまでもない。アシュリー殿は、私の命に替えても守る」
ヴィンセントは短く、しかし一切の迷いなく答えた。エレベルはその答えを聞くと、一瞬だけ獲物を見定めた後のような、冷徹で美しい笑みを浮かべた。
「……また、すぐ来ますけどね」
「……」
「姉様の手紙が途絶えたら、翌日には出発します。……どうか、僕の休暇を早めさせるような真似はしないでくださいね?」
さらりと呪いのような言葉を残し、エレベルは馬車へと乗り込んだ。扉が閉まり、馬車が動き出す。その瞬間まで、エレベルは窓越しに姉へと手を振り続けていた。
漆黒の馬車が門をくぐり、その姿が完全に見えなくなった頃。
執務室に戻った側近たちは、誰からともなく窓を全開に放り投げた。
「……空気が、軽い。物理的に軽くなりましたね」
宰相マシューが、深呼吸をしながら眼鏡を拭く。
「一季節、ずっとあの『いつ首が飛ぶか分からない圧』の中にいたんですから……。正直、寿命が縮みましたよ」
ジョッシュが肩の力を抜き、ジャレドやデリクもまた、深く頷いた。
「笑顔なのに怖い、というのは、刃物を突きつけられているより消耗しますね。……陛下、ようやくこれで、アシュリー殿との平穏な時間が戻りますな」
アロイスの言葉に、ヴィンセントは窓の外を見上げながら、静かに考えた。
エレベルという「最強の盾」がいなくなったことは心許ないが、それ以上に、彼という毒に怯えることなくアシュリーに触れられる喜びの方が勝っていた。
(……これからは、私たちが彼女を守る番だ。……あの王子に、介入の隙すら与えぬほどにな)
ヴィンセントは、少しだけ軽くなった足取りで、積み上がった書類へと向き直った。
東の離れ。
アシュリーは弟を見送った後、いつものようにソファへ戻り、膝の上にクロを乗せた。
「……寂しいですか、アシュリー様。珍しく、エレベル殿下を長く見ておいででしたが」
侍女のサリーが、お茶を替えながらそっと問いかけた。アシュリーは少し考え、クロの鱗の感触を楽しみながら、薄く微笑んだ。
「……静かになったわ。耳鳴りが止まったみたいに」
「それは、寂しいということですか? それとも、清々したということですか?」
「……どちらもよ。サリー。……でも、エレベルはまたすぐ来るわ。あの子は、誰よりも私のことが好きで、誰よりも私の安眠を邪魔するのが得意なんだもの」
アシュリーは、初夏の風に揺れるカーテンを見つめながら、ソファに深く沈み込んだ。
不気味なほどの活気が去り、代わりに訪れたのは、吸血鬼の末裔に相応しい、穏やかで冷たい静寂。
『……キュイ』
クロが、満足げにアシュリーの喉元に顔を寄せた。
嵐のあとのような、しかし確かな幸福感を孕んだ凪。
エシャン王宮という名の魔窟は、一つ大きな”毒”を排出し、さらなる絆とカオスを深めていくのだった。




