「鉄壁の散歩道と、相棒たちの呼吸」
エシャン王宮の東の離れ。昼下がりの穏やかな静寂を破ったのは、ソファから重い腰を上げたアシュリーの一言だった。
「……ヴィンセント。また、あの泉の水が飲みたいわ。……少し、歩きましょうか」
「……ああ、分かった。アシュリー殿、準備をしよう」
ヴィンセントは手早く書類を片付け、執務モードから相棒としての護衛モードへと切り替える。その動きには、もはや王としての気取りはない。だが同時に、周囲への視線や状況の把握は一切緩めておらず、王としての責務を手放しているわけでもなかった。
城下町へ向かう一行。
周囲は近衛騎士団のジョッシュやジャレドたちが、通行人との距離を保つように広範囲を警戒している。しかし、街の喧騒までは防げない。
雑踏の音、馬車の車輪が石畳を叩く響き。それらが重なるたびに、アシュリーは僅かに顔を顰めた。
「……うるさいわ。……今日は、人が多いのかしら……コホッ」
小さく咳き込むアシュリー。その背中を、ヴィンセントがさりげなく支える。
「大丈夫か、アシュリー殿。……やはり馬車を出したほうが良かったのではないか?」
「……いいえ。歩きたいわ」
弱々しく見せつつも、その足取りはヴィンセントに預けられている。
二人の距離は、王と妃という形式的なものではなく、背中を預け合う相棒のそれに近くなっていた。
ヴィンセントは、周囲を一瞥する。
騎士たちの配置、人の流れ、視線の向き。すべてを把握した上で、アシュリーの歩幅に合わせて速度を落とす。
(……問題ない。ここなら、まだ制御できる)
その判断は、王としてのそれだった。
その時、前方の路地から大きな荷物を積んだ荷車が、バランスを崩して一行の進路へと傾いた。
騎士たちが対応に動こうとしたその刹那、誰よりも早く一歩前に出たのは、すっかり喉が完治したダイアナであった。
「ちょっと! そこの荷車、危ないわ! 前を見なさい!」
ダイアナの鋭い叱咤が響く。
彼女は騎士たちの包囲網から一歩踏み出し、アシュリーの視界と進路を遮るように立ちはだかった。
「……ダイアナ、声が大きすぎるわ」
「うるさいわね! あんたがフラフラ歩いてるから、私がこうして気をつけてあげてるんでしょうが! 別に、あんたのためにやってるわけじゃないからね!」
ダイアナは文句を言いながらも、荷車の荷物が崩れないよう、さりげなく自身の魔力で支えを補助し、さらに人の流れをずらして空間を確保する。
それは騎士とは違う、直感的で実戦的な“護り”だった。
ヴィンセントはその隙を逃さず、アシュリーの肩を抱くようにしてスムーズに歩を進める。
「……ダイアナ、助かった」
「……ふん。陛下も陛下よ、アシュリーを甘やかしすぎなんじゃないの?」
「そうかもしれんな。……だが、これが私の役目だ」
ヴィンセントは苦笑しながら答える。
その言葉は軽いようでいて、揺らがない。
ダイアナは一瞬だけ言葉を詰まらせ、それから視線を逸らした。
「……っ、勝手にしなさいよ」
しかしその位置取りは、自然とアシュリーの前方――危険を先に受ける場所へと戻っていた。
目的の泉に辿り着き、アシュリーが冷たい水を一口含んだ。
「……ええ。……美味しいわ」
満足げな彼女の横顔を見て、ヴィンセントとダイアナは、毒気を抜かれたように同時に息を吐いた。
ほんの一瞬だけ、周囲の喧騒すら遠のいたような静けさが訪れる。
「……全く。水一杯のために、これだけの護衛を引き連れて……。あんた、本当に贅沢な女ね、アシュリー」
「……そうね。……でも、あなたもついてくるでしょう?」
「……っ、それは、当たり前でしょう!」
顔を真っ赤にして言い返すダイアナ。
ヴィンセントはそれを横目で見て、小さく息を吐いた。
(……悪くない配置だな)
王としてではなく、一人の人間としての実感だった。
アシュリーを中心に、前に立つダイアナ。隣にいる自分。
そして周囲を固める騎士たち。
それは、歪ではあるが――ひどく安定した形だった。
東の離れの生態系は、衝突しつつも、アシュリーを中心とした絶妙なバランスで回り続けている。
ヴィンセントとアシュリー。そして護衛役としてのダイアナ。
その距離は、主従でも、単なる男女でもない。
互いに役割を持ち、自然に噛み合う“相棒”の形へと、ゆっくりと収束しつつあった。
アシュリーは、再び水を一口飲み、満足げに目を細める。
「……ふふ、静かね」
その一言だけで、この場の均衡は保たれる。
王宮でも、街中でも変わらない。
彼女の周囲だけが、世界から切り離されたかのような静寂を持ち続ける。
その中心にいることを、ヴィンセントも、ダイアナも、もう疑ってはいなかった。
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