「福音という名のノイズ、あるいは理性の終焉」
北方の覇者、エルダリア帝国の玉座の間は、氷点下の緊張感に包まれていた。
皇帝の手元には、最新の『アディリン報告書』が握られている。その紙面を埋め尽くすのは、軍事機密でも政治情勢でもなく、一匹の小竜の成長記録と、一人の少女がいかに安らかに眠っているかという、狂気的なまでの”観測データ”であった。
「……報告は、以上か」
「はっ。……皇女殿下は現在、対象の睡眠を”一秒でも長く、一%でも深く”維持することに全知全能を傾けておられる模様。また、王の献血スケジュールを最適化し、竜の成長を促す”育成計画”に着手したとの情報も……」
報告を読み上げる諜報員の声は震えていた。
皇帝は、静かに椅子から立ち上がった。その瞳には、最愛の娘が救いようのないカルトに毒されたと確信した親の絶望と、軍事大国の長としての冷徹な決断が混ざり合っていた。
「……アディリンは、完全に洗脳された。あの理性の塊が、あのような稚拙な報告を送ってくるはずがない。……あれは、エシャン王国による”偽装”か、さもなくば精神を破壊された末の”叫び”だ」
『帝国の合理主義は、ここで致命的な誤読を犯した。彼らは、アディリンが自発的にその異常性に”魅了”されたという事実を、理性の名において拒絶したのである。』
「聖騎士団を動かせ。名目は皇女の救出。実態は、エシャン王宮の”浄化”だ。……あの不気味な王女と、トカゲもろとも、一滴の塵も残さず焼き払え。……我らの誇り(アディリン)を、取り戻すのだ」
帝国の”間違った正義”が、最悪の軍事行動へと舵を切った瞬間であった。
一方、エシャン王宮の東の離れ。
そこには、帝国の焦燥など微塵も感じさせない、歪で穏やかな”日常”があった。
「アシュリー様、紅茶の温度が一時的に一・五度低下しましたわ。すぐに淹れ直させます。……ダイアナ、貴女のその雑な扇ぎ方のせいで、空気の対流が乱れていますわよ」
「……っ、うるさいわね帝国の女! 私は扇いでるんじゃないわ、アシュリーに”風の魔力”を送ってるのよ! 伝統を知らない理屈屋はどきなさい!」
アディリンとダイアナが、アシュリーの枕元で静かな、けれど熾烈な”世話焼きバトル”を繰り広げていた。
アディリンの腕には、かつて理性を象徴したペンではなく、アシュリーの睡眠を管理する”超精密ストップウォッチ”が握られている。
「陛下、血の供給が三時間遅れています。クロ様の機嫌が五%損なわれました。……早く、左手を」
「……分かっている。アディリン、お前は少し、アシュリー殿に近づきすぎではないか?」
ヴィンセントが不機嫌そうに、けれど当然のように包帯を解く。
アシュリーはソファに沈み、喧騒をBGMに、膝の上のクロを撫でながら、ぼーっと虚空を見つめていた。
そんなアシュリーの元へサリーとケリーが音もなく近寄った。
「……賑やかだわ。……クロ、少しお腹が空いたかしら?」
『キュイ』
クロが黄金の瞳を細めた、その時だった。
東の離れの結界が、外側から凄まじい衝撃を受けて震えた。
爆炎と共に、東の離れの扉が吹き飛ぶ。
現れたのは、エルダリア帝国が誇る聖騎士団の精鋭たち。白銀の鎧を纏った彼らは、救出対象であるアディリンの姿を見つけると、歓喜の声を上げた。
「皇女殿下! お迎えに上がりました! さあ、その薄汚れた吸血鬼の檻からお逃げください! 我々が、この邪悪な王宮を根こそぎ浄化いたします!」
「その邪悪な竜もろとも、神の光に消えるがいい!」
聖騎士の一人が、剣を抜き、ソファに座るアシュリーへと向けた瞬間、ケリーが動いた。
「ぅあっ」
アシュリーに剣を向けた騎士の腕が無くなった。
さらにヴィンセントとアロイスとケリー達が武器に手をかけようとした、その瞬間。
アディリンが、騎士たちの前に立ち塞がった。
「……。……今、何と言いましたの?」
その瞳は、これまで見たことのないほど冷たく、そして激しい”怒り”で燃え盛っていた。
「皇女殿下……? さあ、こちらへ……」
「静かにしなさい、この無能共」
アディリンの凍てつく声が、広間を支配した。
それを影の中からエレベルが出てきて、楽しげに笑みを浮かべた。
「……貴方たちが吹き飛ばした扉の音で、アシュリー様の睡眠深度が四十%も損なわれましたわ。……そして、その剥き出しの殺気。……クロ様の情緒を不安定にさせるという、万死に値する愚行を犯した自覚はありますの?」
「な、何を……我々は殿下を助けに……!」
「助ける? ……笑わせないで。私は今、かつてないほど効率的で合理的で、そして”至高”の安寧の中にいますわ。……それを乱す貴方たちは、私にとって……いえ、この世界にとって、排除すべき”ノイズ”でしかないの」
アディリンは、懐から帝国の最新魔導具――本来は防御用の、空間を固定する結晶を取り出した。
「エレベル殿下。……この者たちの”畳み方”、私にも教えていただけますかしら? ……帝国の論理に基づけば、体積を最小化するのが、最も効率的な処分方法ですもの」
「あはは! いいね、アディリン。……特別に教えてあげる。まずは、関節の魔力を抜き取るんだ……」
そこから始まったのは、”救出劇”ではなく、”一方的な清掃”であった。
エレベルの銀の糸と、アディリンの精密な空間計算。二人の共同作業により、白銀の聖騎士たちは、断末魔すら上げられぬまま、次々と”物”へと変えられていく。
「……そこ。三センチ左に折ったほうが、トランクへの収まりがよろしいですわ」
「おっと、本当だ。アディリン、君はやっぱり天才だね」
二人の会話は、もはや地獄のそれであった。
それを見ていたダイアナは、引き攣った笑顔でヴィンセントに囁いた。
「……ねえ、陛下。あの帝国の女、完全に”あちら側”へ行ったわよ……」
「……ああ。……だが、これでアシュリー殿の部屋が少し広くなるな。……トランクは便利だ」
ヴィンセントの理性もまた、”あちら側”に既に手遅れなところまで浸食されていた。
嵐が去った後、東の離れには再び、静寂が戻っていた。
新調された扉の代わりに、アディリンが即席で張った”物理的にも精神的にも鉄壁な結界”が、部屋を包んでいる。
「……片付いたわね。アディリン、エレベル。ケリーたちも……お疲れ様」
アシュリーが、ようやく目を覚ましたクロを優しく撫でる。
アディリンは、返り血一つ浴びていない完璧な淑女の礼を執り、アシュリーを見つめた。
「……アシュリー様。先ほどは安眠を妨げ、申し訳ございませんでした。……次からは、帝国の軍隊が丸ごと来ても、羽虫一匹通さないよう”最適化”しておきますわ」
その瞳には、もはや帝国の皇女としての未練など、欠片も残っていない。
彼女は悟ったのだ。
(数式や論理で測れる世界など、あまりにも退屈で、価値がない。)
アシュリーという名の、観測不能な深淵の傍らで、ただその安眠を守ること。
それこそが、彼女が行き着いた、この世で最も”合理的”な幸福の形であった。
「……ふふ。頼もしいわね、アディリン」
アシュリーの薄い微笑みが、アディリンの新しい”核”となった。
帝国からの贈り物は、檻入りの毒などではなかった。
それは、深淵を愛でるための、最も有能な”管理人”の供物であったのだ。
エシャン王宮という名の魔窟は、帝国の精鋭を飲み込み、さらなる異常な純度を持って、世界から孤立していく。
翌朝、帝国の諜報局に届いた報告書は、たった一行であった。
『救援不要。ノイズを排除。……アシュリー様は、今日も大変美しくお眠りです』




