「帝国の返信と、パニックお散歩」
昨夜、東の離れの屋根裏で密かに蠢いていた悪意は、どろりとした感触ごと、甘やかな静寂へと上書きされていた。
北方の雄、エルダリア帝国が誇る暗殺者――”掃除人”たちが、何一つ音を立てぬまま、音もなく”処理”されたからである。
「……うん。悪くないけど、少し雑だね。……ちゃんと畳まないと、綺麗に収まらないよ?」
影の中から現れたエレベルは、銀のトランクを軽くパチンと鳴らし、無邪気な笑みを浮かべた。
彼の指がピアノを弾くようにわずかに動くたび、暗殺者たちの身体は、まるで紙細工のように無造作に折り畳まれていく。
抵抗も、悲鳴も、存在すら許されない。
意識だけを残したまま、魔力回路を物理的に拘束され、”物”として整形されていくその光景は、もはや戦闘などではない。
それは、あまりにも冷徹で残酷な、命の”標本作成”であった。
「……姉上の安眠を邪魔するなら、こうなるってこと、覚えておくといいよ」
最後の一人を寸分の狂いもなく収め終えると、エレベルは満足げに頷いた。
「……さて。この”返事”、ちゃんと届けないとね。送料は無料にしてあげるよ」
トランクを愛おしそうに軽く撫で、彼は音もなく夜の闇へと消えた。
翌朝。
理性の皇女アディリンは、目覚めた瞬間、自室の中央に置かれた”銀のトランク”に気づいた。
(……何? 搬入の記録はない。転移……? いいえ、この残された魔力は……)
彼女は迷いなく歩み寄り、冷たい蓋に手をかける。
そして開いた瞬間――わずかに、息を止めた。
「……なるほど。昨夜の”掃除人”たちね」
そこには、帝国最高戦力が、”完璧に整頓された状態”で収められていた。
四肢は無理なく折り畳まれ、魔力は封じられ、意識だけがその暗い闇の中に閉じ込められている。
それは、一種の”芸術”と言っていいほどの完成度を誇っていた。
(……効率的。無駄がない。恐ろしく合理的な処理……)
一瞬、吐き気にも似た生理的な拒絶が込み上げる。
だが同時に、その高度な拘束理論を解析しようとする自分がいた。トランクには、子供の落書きのような簡素なメモが添えられていた。
『姉上の安眠を邪魔するゴミは片付けたよ。……君の国の玩具、少し遊ばせてもらった』
(……っ)
怒りではない。恐怖でもない。それよりも先に浮かんだのは――あまりにも純粋な、知的好奇心であった。
(この圧縮、拘束、意識保持……理論として成立している。……再現可能? いえ、それ以前に……)
アディリンは、静かに、そして震える息を吐いた。
(……私は、これを”美しい”と感じているの?)
積み上げてきた理性が、わずかに軋む。
観測者は、この瞬間、完全に”越境”した。
その頃、東の離れ。
「……クロがいない」
アシュリーの平坦な一言が、すべての発端だった。
「……何だと?」
ヴィンセントの顔色が、瞬時に土色へと変わる。
「あんたの竜でしょう!? 管理どうなってんのよ、まったく無気力なんだから!」
掠れた声で叫ぶダイアナに対し、アシュリーは欠伸を噛み殺しながら応じた。
「……お外の魔力が、恋しかったみたいだから。……きっと散歩よ、散歩」
あまりに平坦な、あまりに無責任な説明。その一言で、場の空気が物理的に凍りついた。
一国を灰にする災厄の竜が、散歩。その言葉の落差に、王たちの心臓が止まりかける。
「総員、確保だ! 王都封鎖も視野に入れろ! 騎士団を動かせ!」
そこへ、トランクの処理(と解析)を終えたアディリンが合流する。
「陛下。クロ様の魔力供給が不安定な状態で外部環境に晒された場合――暴走確率は、九十八%」
「……時間は?」
「最短で一時間以内に臨界に達しますわ」
「……走るぞ」
ヴィンセントの顔は、もはや王としてのそれではなく、完全に迷子を案ずる”パパ”の顔であった。
王都・市街地。
小さな漆黒の竜は、楽しげに朝の空を跳ねていた。
『キュイー』
街灯の魔導石をつついては魔力を啜り、通行人の恐怖から漏れ出す魔力を舐め取り、くるくると旋回する。
そのたびに空間が震え、建物が古びた楽器のように低く軋む。
「……あれは、まさか噂の……!」
「逃げろ! 魔導災害だ! 街が潰されるぞ!」
民衆は混乱し、蟻を散らすように逃げ惑う。
その阿鼻叫喚の中を、なりふり構わず全力疾走する王族たちの姿があった。
「クロ! パパはここだ! お前の大好きな血はここにあるぞ!」
「クロ様、魔力の質を考慮なさい! 私の理知的魔力を差し上げますわ!」
「ちょっと待ちなさいよそのトカゲ! 逃げるんじゃないわよ!」
それは、歴史に刻まれるべき、あまりにも異様な追走劇であった。
クロは自分を追う大人たちを黄金の瞳で眺め、”楽しそうに”目を細めた。
少し離れた時計塔の屋根の上。
エレベルが、頬杖をついてそのカオスを眺めていた。
(侵入者は全部排除済み。外部要因なし。……じゃあこれは)
「……ふふ。姉上の、ただの”お遊び”か」
小さく笑う彼の瞳だけは、一切笑っていなかった。
王都の中心広場。クロが一瞬だけ動きを止めた。
そして――。
「……戻りなさい、クロ」
どこからともなく、けれど脳裏に直接響くようなアシュリーの声が、王都全体を震わせた。
『キュイ』
次の瞬間、クロはあっさりと方向を変え、矢のような速さで王宮へと戻っていく。
「……は?」
立ち尽くすヴィンセント。息を切らし、呆然とするアディリンとダイアナ。
東の離れに戻ったクロは、何事もなかったかのようにアシュリーの膝に収まり、幸せそうに丸まった。
「……おかえり。退屈しなかったかしら」
それだけ。
王都を揺るがし、国を滅ぼしかけた災厄は、たった一言で収束した。
(……理解したわ)
アディリンは、静かに目を閉じる。
これは国家ではない。統治でもない。支配でもない。
(――ただの、”生態系”なのだわ)
理性は、まだそこにある。
だが、その立ち位置は、もはや”外”ではない。
観測者は、この瞬間、完全に内部へと取り込まれたのである。




