「歪む報告書と、パパの焦燥」
北方の雄、エルダリア帝国の諜報局には、今、かつてない戦慄が走っていた。
エシャン王国へと送り込まれた”帝国の至宝”アディリン皇女から、定期報告書が届いたからである。
『本日のアシュリー様のご寝顔は、昨日に比べ三%ほど安らか。湿度の調整が功を奏したと思われる。また、クロ様の鱗の光沢は、私の理知的魔力を付与することで十五%向上。……引き続き、この“至高の静寂”を維持するための観測を継続する』
報告書を読み上げた皇帝は、あまりの内容のなさに、愛用の万年筆をへし折った。
「……何だ、これは。軍事機密は? 竜の弱点は? エシャンの内政崩壊の兆しはどこへ行った! アディリンは……アディリンは、あそこで何をしているのだ!」
「はっ……。皇女殿下は、どうやら現地の“安眠環境”の最適化に、全知全能を傾けておられるようで……」
「狂ったか。あの理性の塊が、ただの世話焼き人形に成り下がったというのか! ……もはや猶予はない。アディリンが完全に取り込まれる前に、第二の楔を打ち込む。……”掃除人”を差し向けろ。アシュリーを、そしてあのトカゲを排除するのだ」
帝国の合理主義が導き出した結論は、エシャンという底なし沼への、さらなる戦力(生贄)の投入であった。
一方、エシャン王宮の東の離れ。
平和そのものの空気が流れる中、国王ヴィンセントの心は穏やかではなかった。
「……アディリン。貴殿、今日はもう帰ったらどうだ。クロの食事は、私が責任を持って行う」
ヴィンセントは不機嫌そうに、包帯を解いた左手をクロの前に差し出す。だが、小竜クロは、王の血を一舐めしただけで、ぷいと横を向いた。
そして、隣で冷静に魔導書を読んでいたアディリンの膝の上へ、当然のように飛び乗ったのである。
『キュイー。……はむっ』
「あら、クロ様。今日も私の“論理的な魔力”がお好みですか? ……陛下、鉄分ばかりでは栄養が偏りますわ。私の整えられた魔力は、クロ様の神経系を安定させる効果があるのです」
アディリンは得意げに、指先から青白い魔力をクロに吸わせる。クロはうっとりと瞳を細め、アディリンの指に頭を擦り付けた。
(……な、何だと?)
ヴィンセントは、激しい敗北感と“嫉妬”に震えた。
一国の王が、自らの血(食事)よりも、他者の魔力を選ばれた。それは“パパ”としての威厳が、音を立てて崩れ去った瞬間であった。
「……アシュリー殿。クロが、私よりもあの女に懐いているのだが」
ソファで微睡んでいたアシュリーは、面倒そうに片目だけを開けた。
「……いいじゃない。味変よ。ずっとあなたの血ばかりじゃ、クロも飽きるでしょうし。……それに、アディリンがいてくれた方が、部屋が静かだわ」
「……っ!」
アシュリーの容赦ない一言が、ヴィンセントの胸に突き刺さる。
(いつの間にか、私が一番”不要”な存在になっている……!?)
王の焦燥を他所に、アディリンは完璧な手つきでアシュリーの毛布を整え、クロに魔力を与え続ける。
理性の皇女は、もはや”観察者”ではなく、この生態系における”最高級の飼育員”としての地位を確立していた。
しかし、その歪な平和のすぐ外側まで、帝国の刺客――”掃除人”が迫っていた。
「……報告にあった通りだな。王宮全体が、毒に当てられたように弛緩している」
夜の闇に紛れ、東の離れの屋根裏に潜入したのは、感情を去勢された帝国の暗殺者たちだ。彼らは冷徹に、アシュリーの喉元へ照準を合わせる。
だが、彼らはまだ知らなかった。
自分たちが”ゴミ”として認識された瞬間に、この建物の影から、さらに残酷な”掃除屋”が現れることを。
「……ねえ。そこ、僕の姉上の寝室なんだけど」
暗闇の中から響いたのは、鈴の音のような、甘く冷たい声。
エレベルが、銀のトランクをパチンと鳴らし、屋根裏の住人たちへ向けて不敵に微笑んだ。
エレベルの姿を確認したケリーとサリーは何事もなかったように部屋に戻っていった。
「……姉上の安眠を邪魔するなら、君たちも“標本”にしてあげなきゃね」
帝国の新たな刺客と、王宮の掃除屋。そして、“パパ”としての地位を懸けて魔力改善に燃え出す王。
エシャン王宮のカオスは、外圧を飲み込み、さらなる混沌へと加速していく。




