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嫁ぎ先が滅びた出戻り王女の再婚〜最強は、だいたい無気力でできている〜  作者: 薄氷薄明


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「帝国の贈り物は、檻入りの毒」

 後宮を揺るがした三妃による大逆事件。その主犯たちが王宮最奥の”幽閉の間”へと沈められてから数日、エシャン王宮を包む空気は、以前にも増して重く、そして鋭く張り詰めていた。


 そんな中、北方の軍事大国エルダリア帝国から一通の公式書状が届けられる。それは、血の匂いを洗練された香香で覆い隠したような、あまりにも不自然な”謝罪”であった。


「……謝罪、だと? どの口がそれを言う」


 玉座の間。国王ヴィンセントは、黄金の封蝋を無造作に引き剥がし、書状に目を落とした。その指先には、苛立ちを隠しきれない力がこもっている。


「先日の特使の非礼を深く詫びる。ついては、両国の永劫なる友好の証として、我が帝国の皇女アディリンを妃として差し出したい――。……吐き気がするな」


 ヴィンセントは紙を投げ捨てた。それは謝罪でもなければ、友好の提案でもない。


「……露骨ですね、陛下」


 傍らに控える宰相マシューが、落ちた書状を拾い上げながら静かに言葉を継ぐ。


「名目は友好ですが、実質は”査察官の常駐”。あるいは、エシャンという盾を内側から食い破るための”楔”でしょう」


「あるいは――人質のふりをした”毒”か」


 ヴィンセントは嘲るように笑う。だが、その瞳の奥は氷のように冷え切っていた。


(先日の魔力脈動、そして”竜”……。帝国が嗅ぎつけ、探りを入れてこないはずがない。狙いは、この国の心臓だ)


 ヴィンセントの思考の先には、常に一人の少女がいた。東の離れに微睡む、無気力な災厄。


「拒否はできない。拒めばそれを大義名分に兵を動かすだろうし、受け入れれば常に監視の目に晒される。どちらに転んでも泥沼だ」


「左様でございます。”ちょうど”後宮の席が、先日空いたばかり。そして……竜であるクロ様もお生まれになったばかりのこのタイミング」


 マシューの含みのある言葉に、ヴィンセントは一瞬だけ、捕食者のような冷たい沈黙を保った。


「……受け入れる。毒ならば、飲み干して胃袋から焼き尽くせばいい。……喉元を裂いてな」


 その声には、王としての非情な決断と、アシュリーという存在への狂おしいほどの”執着”が混ざり合っていた。


(アシュリー殿の安眠を、あの静寂を乱すというのなら――)




 数日後。

 エルダリア帝国皇女、アディリン・エルダリアが、重厚な馬車に揺られてエシャン王宮へと足を踏み入れた。

 月光を溶かしたような銀糸の髪、一点の曇りもない洗練された所作。彼女は、帝国が作り上げた最高傑作の”理想の皇女”であった。しかし、その淑女の仮面の内側にあるのは、感情を排した冷徹な観測者の思考回路だ。


(……空気が重いわね。想像以上に)


 豪華な装飾が施された門をくぐった瞬間、アディリンは肌を刺すような違和感に眉をひそめた。


(魔法国家特有の、絶え間ない魔力の流動性がない。……いえ、流れが止まっているのではないわ。これは、何かに”押さえつけられている”空気。まるで巨大な重力に、全ての魔力がひれ伏しているような……)


 彼女は歩を進めながら、表情一つ変えずに周囲を測り続ける。騎士たちの無意識の緊張、侍女たちの怯えを孕んだ視線、そして王宮全体の構造。


(中心にいるのは誰? ヴィンセント王? いいえ、彼が放つ覇気とは、この重力は質が違う。……この奥に、何がいるの?)


 その答えは、予期せぬほど早く、そしてあまりにも残酷な形で与えられることとなった。

 案内されたのは、王宮の主殿から切り離されたような場所――東の離れ。

 重厚な扉が開いた瞬間、アディリンの積み上げてきた理論は、根底から瓦解した。


 そこにいたのは。

 無表情でこちらを見つめる従者。

 柔らかなソファに深く沈み込み、気だるげに薄い目を開ける少女――アシュリー。

 そして、その膝の上で、まるで猫のように丸まっている漆黒の小さな”竜”。


「……あなたが、新しい人質?」


 鈴を転がすような、しかし心底どうでもよさそうな声。

 その刹那、アディリンは自分の周囲の空気が、物理的な重さを持って書き換えられるのを感じた。


「エルダリア帝国皇女、アディリンにございます。本日より、陛下に仕える妃として――」


 教育の賜物である完璧な挨拶を口にしながら、アディリンの脳内はフル回転していた。


(魔力反応、皆無。威圧感、なし。殺気さえ、一切感じ取れない。なのに、なぜ私の本能は……これほどまでに”逃げろ”と絶叫しているの!?)


 視線が、吸い寄せられるように少女の膝の上へと落ちる。

 黒い竜――クロが、ゆっくりと、その黄金の瞳を開いた。

 ただ見つめられただけで、アディリンは理解した。


(測られている。……威嚇でも、捕食でもない。これは、ただの”値踏み”だわ)


 一国を滅ぼす災厄が、自分を”生かしておく価値があるか”と、遊び半分で査定している。その事実に、アディリンの背中を冷たい汗が伝った。


 そこへ、足音もなくヴィンセントが入室してきた。

 彼は隣に立つアディリンなど存在しないかのように無視し、アシュリーへと歩み寄る。


「……アシュリー殿、入るぞ。クロの”昼食”の時間だ」


 ヴィンセントは慣れた手つきで左手の包帯を解き、短剣で迷いなく掌を裂いた。

 鮮血が滴り、濃厚な命の匂いが部屋に充満する。王自らが血を捧げ、それを当然のように竜が喰らう。そして、その様子をアシュリーは「よく食べて偉いわね」とでも言いたげな眼差しで眺めている。

 周囲では、聖女ヘレナが恍惚とした表情で祈りを捧げ、影の中からはエレベルの”殺気と興味”が混ざった視線が自分を突き刺している。


(……この国、狂っているわ)


 アディリンは、自分の信じてきた世界のルールが、ここでは一欠片も通用しないことを悟った。

 王が絶対の支配者ではない。


(この女――アシュリーこそが、この狂気と平穏の中心なのだわ。そして最悪なのは……彼女自身に、自分が中心であるという自覚が一切ないこと)


「……よろしく、アディリン。退屈させないでちょうだい」


 アシュリーが、ほんの少しだけ口角を上げた。

 その微笑みに、アディリンの中の”帝国の論理”が、音を立てて崩壊していく。


(任務変更ね。……観察なんて、そんな生温いものでは足りない。理解しなければ――私は、帝国は、ここで終わる)


 これは敵ではない。


(これは、もはや”災厄”そのものなのだわ)


 そして同時に。

 クロが、もう一度彼女を見た。


(……ああ、そうか)


 アディリンは、絶望に近い諦念と共に確信した。

 自分はもう、観測者ではない。


(選ばれたのだわ。――この子たちの、新しい”玩具”として)


 エシャン王宮という名の底なしの魔窟に。

 唯一残されていた”まともな理性”が、静かに、そして抗いようのない力で、飲み込まれていった。

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