「厄災の誕生と、歪な家族」
後宮を襲った凄惨な魔力の残滓が消えぬまま、エシャン王宮はかつてないほど重苦しく、そして慌ただしい朝を迎えていた。
イデリーナ、エリーゼ、メリッサ――三人の妃が禁忌の魔導具に手を染め、自滅した前代未聞の事件。それは単なる寵愛を巡る諍いではなく、背後に異国の影を孕んだ国家の危機であった。
その事後処理に、国王ヴィンセントと宰相マシューは夜通し奔走していた。
「……三人の身柄は現在、王宮最奥の”幽閉の間”へ移送済みです。魔力逆流による精神へのダメージで意識は混濁しておりますが、逃亡の恐れはありません。外部との接触も一切断っております」
淡々と、しかしどこか冷徹な響きを帯びたマシューの報告に、ヴィンセントは低く唸る。
「……あれを”静養”と呼ぶのか? 誰が見ても、ただの抜け殻だろう」
「表向きは、です。現役の妃である以上、裁判で罪状が確定するまでは相応の体裁が必要になります。……他国への示しというものですよ」
「……甘いな。だが、やるべきことは分かっている」
吐き捨てるように言いながらも、ヴィンセントの瞳には鋭い光が宿っていた。
これは単なる後宮の処罰ではない。
――国家反逆の裁き。
「徹底的に洗え。彼女たちの実家の関与、他国の工作員との繋がり、すべてだ。この国を根腐れさせる毒は、一滴残らず摘み取る」
「はっ。承知いたしました」
静かなやり取りの裏で、王の怒りは確実に、逃げ場のない刃へと研ぎ澄まされていた。
一方その頃。
凄惨な政治の駆け引きなど届かぬ東の離れでは、まったく別の意味で”世界が揺れようとしていた”。
パキ、パキパキ――
アシュリーの膝の上。
黒い光を帯びた卵が、まるで内側からの脈動に耐えかねたように、明確な音を立ててひび割れていく。
「……あら。仕方ないわね。もう出てきていいわ」
欠伸混じりに、けれどどこか慈しむように呟くアシュリー。
その隣で、エレベルが珍しく冗談を封印し、真剣な顔で姉を庇うように構えていた。
――そして。
パキンッ!
殻が力強く弾け、圧縮されていた濃密な魔力が一気に解放される。
衝撃波が部屋を駆け抜け、空気が物理的な重さを持って震えた。王宮の窓ガラスが低く鳴り、大気がうねる。
現れたのは――
手のひらに乗るほどの、小さな、しかし夜の闇を凝縮したような漆黒の竜だった。
『キュアアアァッ!』
産声一つで空間が軋む。一国を滅ぼすとされる終焉の象徴。
だが。
「……姉上はやっぱりすごいなあ」
アシュリーの隣で警戒を解いたエレベル。
そして、異変を察知してヴィンセントたちが駆け込んできた。
「……な、なんだこれは……。これが、あの忌まわしき卵の中身だというのか……」
「……可愛い……」
ヴィンセントの驚愕を余所に、マシューの宰相の仮面は剥がれ落ちていた。
彼は吸い寄せられるように、ふらりと小竜へ歩み寄る。
「この黄金の瞳……この宝石のような鱗……なんと完璧な造形だ……! おお、私の指を甘噛みしている……これは、知性の証か!?」
「ずるいぞマシュー殿! 私にも触れさせろ!」
騎士団長アロイスまで、子犬を愛でる少年のように膝をつく。
国家中枢を担う男たちの理性が、たった一匹の幼体に完全に陥落した瞬間だった。
「姉上。名前つけようよ!」
「……黒いから”クロ”」
アシュリーが、熱狂する男たちを無視してぽつりと名を与える。
「今日からあなたは”クロ”よ。……あんまり、変な人たちに懐いちゃダメよ」
『グルル……』
小竜は嬉しそうに喉を鳴らし、アシュリーの細い指に頭を擦り付けた。
そのあまりに無垢で愛らしい仕草に、周囲の男たちの心は完全に崩壊する。
「……アシュリー殿。この子は……」
ヴィンセントが、困惑と期待が入り混じった複雑な表情で恐る恐る手を差し出す。
クロはくんくんと鼻を鳴らして王の匂いを嗅ぎ――
『キュ』
明らかに「お腹が空いた」という顔をして、ヴィンセントを見上げた。
「……ええ。この子、あなたの血の味が気に入っているみたい」
アシュリーは当然のように、どこか誇らしげに言う。
「ヴィンセント。あの子の”パパ”になってくれるかしら。責任を持って、食べさせてあげてね」
「……パパ……? ……私が、か?」
(……私の、初めての子?……この竜が?私の子?)
一瞬、エシャン国王としての思考が停止した。
だが。
『キュウ……』
黄金の瞳でじっと見つめる、ねだるような鳴き声。
そして、アシュリーの拒絶を許さない視線。
それは一国の王としての敗北であり、同時に、この小さな命を介して彼女と繋がるための免罪符にもなる。
――抗えるはずがなかった。
「……分かった。……お前たちの糧になるなら、この身など差し出そう」
ヴィンセントは自嘲気味に、けれど迷いなく包帯を解いた。
滴る王の血を、クロが夢中で、愛おしそうに舐めとっていく。
満足した小竜は、ふぁ、と小さな欠伸をすると、くるりと丸まり、アシュリーの膝で深い眠りについた。
血を捧げる王と、それを平然と受け入れる王女、そして膝の上で微睡む竜。
どう見ても、正常な主従でも、夫婦でもない。
だが。
この歪で狂った均衡こそが、今のエシャン王宮で最も安定した、唯一の”安らぎ”であった。
後宮では冷たい闇の中で裁判を待つ妃たち。
執務室では陰謀を暴こうと目を血走らせる文官たち。
けれど、この東の離れだけは、甘やかな血の匂いと竜の寝息に包まれている。
――エシャン王宮は今、
世界で最も危険な厄災をその中心に抱きながら、最も穏やかな均衡の上に立っていた。




