「後宮の悪意と、竜の目覚め」
――その夜、後宮の悪意は、初めて”餌”となった。
深夜、エシャン王宮の最奥に位置する後宮は、どろりとした負の情熱に満たされていた。
人目を忍んで集まったイデリーナ、エリーゼ、メリッサの三人は、青白い顔で一つの”黒い小瓶”を囲んでいた。それは闇市場から、莫大な賄賂と引き換えに流れてきた禁忌の魔導具――『影喰らいの壺』である。
「……あんな女さえいなければ。陛下も、ダイアナ様も、聖女様までおかしくなることはなかったのよ」
イデリーナが震える指で小瓶の封印を解く。中から溢れ出したのは、物理的な質量を伴った粘り気のある”漆黒の霧”だった。それは意思を持つ呪いであり、使用者の魔力を代償として標的の”存在そのもの”を食い潰す。
(これで終わりよ、メネスの不気味な王女。……貴女の喉を、二度と鳴らないようにしてあげるわ)
三人が自身の魔力を注ぎ込むと、黒い霧は蛇のように鎌首をもたげ、アシュリーが眠る東の離れへと音もなく滑り込んでいった。
その頃、東の離れの寝室。
アシュリーは、微かに黄金色の光を放つ”卵”を抱き枕にし、心地よい闇の底に沈んでいた。そこへ、窓の隙間をすり抜けて侵入した”影喰らい”が、アシュリーの寝顔に迫る。
だが、その呪いが彼女の影に触れるよりも早く、アシュリーの膝の上で脈動していた卵が、ドクン、と一際大きく跳ねた。
「……あら。私の眠りを邪魔するなんて、躾がなっていないわね」
アシュリーは目を開けることすらなく、退屈そうに指先を動かした。
次の瞬間、卵のひび割れから漏れ出した漆黒の魔力が、侵入者である呪いの霧を逆に引き寄せ、凄まじい勢いで飲み込み始めたのだ。
(お腹が空いていたのね。ちょうど良かったわ)
その瞬間、部屋の“影”そのものが一瞬だけ消えた。
世界を滅ぼすドラゴンの幼体にとって、人間が用意した程度の呪いなど、格好の”栄養素”に過ぎない。ズウゥゥ、と掃除機に吸い込まれる塵のように、呪具は卵の亀裂へと消えていった。
一方、後宮の秘密の部屋では、信じがたい事態が起きていた。
呪いを”喰われた”ことによる強烈な反動――魔力逆流が三人を見舞ったのだ。
「ひ、ひぃっ……! な、何が……魔力が、吸い出される……っ!」
絶叫を上げようとした彼女たちの前に、一人の影が降り立った。
メネスの第三王子、エレベルである。彼は天使のような微笑みを浮かべたまま、手に持った銀の糸を軽やかに操っていた。
「……お掃除の時間だよ、お姉さんたち。せっかく姉上が静かに眠っていたのに、こんな汚いゴミを撒くなんて、本当に困った人たちだ」
エレベルが指をわずかに動かすと、三人の周囲に張り巡らされた銀の糸が、彼女たちの声を、動きを、そして呼吸すらも物理的に固定した。
これがエレベルの”清掃”だった。彼はただ剣を振るうのではない。相手の魔力回路に直接干渉し、その意識を残したまま肉体の自由を奪い去る「生きた人形化」の技術。
「姉上の安眠を邪魔するネズミには、相応の罰を与えないとね。……君たちの意識は、これから数日間、この部屋の暗闇の中でだけ過ごしてもらうよ。もちろん、誰にも気づかれないようにね」
エレベルの瞳から、光が完全に消失する。彼にとって、姉に害をなそうとした者は、呼吸を許される価値さえない塵芥でしかなかった。三人は声も出せぬまま、眼球だけを動かして絶望に震えることしかできない。
「……ちゃんと、静かに壊れてね」
異変を察知したヴィンセントが、アロイスやマシューを引き連れて現場に踏み込んだ時、そこにあったのは――。
魔力回路を焼かれ、廃人のように虚空を見つめて震える三人の妃と、その前で返り血一つ浴びずに佇む王子の姿だった。
「……ヴィンセント陛下。ご愁傷様。後宮の清掃、僕が手伝っておいたよ。……不備は、ないはずだ」
「エレベル殿下……。貴殿は、何を……」
ヴィンセントは惨状に目を細めたが、それ以上に、東の離れから漂ってくる”異様な魔力の気配”に戦慄していた。彼はエレベルを振り切り、全速力でアシュリーのもとへと走った。
部屋を蹴破るようにして入ると、そこには、何事もなかったかのように卵を抱いて眠るアシュリーの姿があった。
だが、その膝の上の卵は、以前とは明らかに違っていた。黄金の光は吸い込まれた呪いに塗りつぶされて重厚な闇へと変わり、パキパキという明確な音を立てて殻が剥がれ落ちている。
「……アシュリー殿! 無事か!」
「……ええ。ただ、この子が少し”食べすぎ”てしまったみたい。……ヴィンセント、少しだけ、あなたの手を貸して」
アシュリーは眠たげに目を擦り、ヴィンセントの左手の包帯を見つめた。
言われるがまま、ヴィンセントが傷口の開いた手を差し出すと、アシュリーはその掌をそっと卵のひびに押し当てた。
(……吸い取られている?)
ヴィンセントは、自らの血と生命力が、アシュリーという”触媒”を通じて膝の上の卵へと流れ込んでいくのを感じた。
それは恐怖ではなく、奇妙な官能を伴うものだった。自らの血が、彼女を支え、彼女の愛する抱き枕の糧になる。その事実に、王としての理性が甘く塗りつぶされていく。
(……もっと寄越せ、と言われている気がした)
「……いいわ。これで、この子も落ち着くでしょう」
アシュリーが手を離すと、卵の脈動は穏やかになった。だが、その表面には、今にも中から何かが飛び出してきそうな、鋭い爪の痕が刻まれていた。
厄災の目覚めは、もう誰にも止められない。後宮の悪意を吸い込み、王の血を啜った竜は、今まさに産声を上げようとしていた。




