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嫁ぎ先が滅びた出戻り王女の再婚〜最強は、だいたい無気力でできている〜  作者: 薄氷薄明


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「観測者の混迷と、歪な生態系」

 エルダリア帝国皇女アディリンにとって、世界とは”数式”と”論理”で構成されるべきものであった。

 彼女はエシャン王宮に足を踏み入れてからというもの、妃としての義務を完璧にこなしつつ、その鋭い観察眼を全方位に張り巡らせていた。


 翌朝、アディリンは情報収集のため、単身で王宮内を歩き回る。

 擦れ違う使用人、女官、そして警備の騎士たち。彼らは一様に礼儀正しいが、その瞳の奥には共通の”奇妙な色”が沈んでいた。


「……東の離れ? ああ、あそこには近づかない方がよろしいかと。……いえ、危険というわけではなく、ただ、あのアシュリーが静かに眠っていれば、何も起きませんので……」


「陛下は……最近、少しお変わりになられました。ですが、我々はその”変化”を受け入れています」


(恐怖と、信仰。そして、諦念に近い受容……。この空気は何? 統治による支配ではない、もっと得体の知れない”何か”に国全体が侵食されているわ)


 アディリンの理性が、警鐘を鳴らし続ける。


 庭園の回廊で、アディリンは先客であるダイアナと遭遇した。

 彼女は掠れた声で、あるいは筆談を交えながら、アディリンを鋭く睨みつける。


「……あなた、帝国の女ね。……忠告しておくわ。アシュリーには、関わらない方がいい。あの子は……あの子は、ただの人間じゃないわ」


(感情で動くノル王国の王女……。分析する価値もないと思っていたけれど)


 だが、ダイアナが放った次の言葉に、アディリンは思考を止められた。


「……でも、あの子に”助けられた”のも事実よ。……腹が立つけど、あの子が静かにしている間は、この国は……不気味なほどに穏やかなの」


(矛盾しているわ。警戒しながらも、どこかで肯定している……。ダイアナ、貴女もすでに”毒”が回っているのね)


 アディリンにとって、感情で揺れるダイアナは「理解不能な非効率個体」として処理された。しかし、その歪な好意こそが、この王宮の真実の一端であることを彼女はまだ知らない。



 次に遭遇したのは、聖女ヘレナであった。

 彼女はアシュリーが好むという香を大量に抱え、恍惚とした表情で廊下を滑るように歩いていた。


「ああ、新しき妃様! アシュリー様の素晴らしさをご理解いただけましたか? あの方は神聖なる静寂そのもの。陛下が自らの血を捧げるのは、救済であり、聖なる儀式なのですわ……!……私、教会の仕事があるので少しの間、留守にしますが……よろしくお願いしますね」


(狂信者が中枢にいる時点で、国家としての末路は見えているわね)


 アディリンの内心は冷え切っていた。論理も倫理も、ここではアシュリーという名の”絶対法”に書き換えられている。


 そしてアディリンは、意図的にチャンスを狙い、再び東の離れでの”献血シーン”を目撃することに成功した。

 物陰から覗くその光景は、前回よりもさらに異質であった。


 ヴィンセントは強要されているのではない。自ら進んで、喜びすら感じさせる手つきでクロに血を与えている。

 アシュリーはそれを見つめるだけで、何一つ命令を下していない。


(支配ではないわ。これは――”依存関係”。王が自発的に供給者となり、彼女をこの箱庭に繋ぎ止めている。力による上下関係など、ここには存在しない……!)


 ヴィンセントが去った後、部屋に残されたのはクロだけだった。

 アシュリーはどこか別の部屋へ行ったのか、姿がない。アディリンが扉の隙間から伺っていると、漆黒の小竜が、音もなく彼女の足元まで近づいてきた。


「……っ!」


 一瞬、肌を裂くような”捕食者の圧”がアディリンを襲う。心臓が跳ね、呼吸が止まる。

 だが、クロはすぐにその瞳を細め、子猫のように無邪気に彼女の靴の先を突いた。


(この竜、理性がある……。しかも、相手を選んでいるわ)


 クロが自分を殺さなかったのは、”遊び相手”として認識されたから。

 アディリンは震える手で、自らの仮説を整理し始めた。


 アディリンの脳内で、バラバラだったパズルが形を成していく。


 1.アシュリー = 全ての中心であり、自覚なき”核”。

 2.ヴィンセント = 彼女を繋ぎ止めるための自発的”供給者”。

 3.周囲の人間 = 彼女の存在に毒され、信仰や依存に染まった”感染者”。

 4.竜 = それらの異常性を加速させる”触媒”。


『これは国家ではないわ。……アシュリーという名の王女を頂点とした、完結した”生態系”なのだわ。』


 アディリンは絶望に近い確信に至った。

 論理で立ち向かえる相手ではない。ここはすでに、別の世界の摂理で動いている。


「……ねえ、アディリン。暇でしょう?」


 背後から、不意に声をかけられた。

 いつの間にか戻っていたアシュリーが、虚空を見つめるような瞳で彼女を見ている。

 強制ではない、ただの誘い。だが、アディリンの足は動かなかった。

 逃げられるはずだったのに、なぜかその声から、足が止まらなかった。


 彼女の理性が、音を立てて剥がれ落ちていく。

 それは、帝国の誇る最高知性が、エシャンという名の”魔窟”に、完全に取り込まれ始めた瞬間であった。

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