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嫁ぎ先が滅びた出戻り王女の再婚〜最強は、だいたい無気力でできている〜  作者: 薄氷薄明


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「準備が整うまで、ここにおります」

 王都近郊の貴族も利用する宿『月の雫亭』の一室は、真昼の熱気をいっ切拒絶した『完璧な闇』に沈んでいた。

 厚手のカーテンが幾重にも引かれ、魔導具の灯りすら排除されたその空間は、アシュリーにとってメネスの地下牢獄を凌ぐほどの安らぎをもたらしていた。


「……ああ、快適ですわ。エシャンの宿は、カーテンの質が素晴らしいのね」


 アシュリーは寝椅子に身を預け、至福の溜息を漏らした。

 傍らでは、侍女のサリーが音もなく銀杯を差し出す。中には、アシュリーの渇きを癒やすための『特製のお飲み物』が満たされていた。


 彼女はただ、待っていた。

 エシャン側が『準備が整った』と知らせてくるその時を、王女としての矜持を持って、静かに、そして極めて快適に。




 一方、部屋の外は『月の雫亭』の主人は、生きた心地のしない時間を過ごしていた。

 隣国の王女が自身の経営する宿を利用してくれるのは誉である。しかし、宿に訪れた際の”準備が整ったという知らせが来るまで”という理由がよろしくないことは主人も理解できた。


 そして何より、様子があまりにも異様なのだ。


「……あ、あの。お食事を下げに参りましたが……」


 おずおずと声をかけた主人が目にしたのは、昨日から手付かずのまま下げられる豪華な料理の数々だった。

 王女は水以外、一切の食事を口にしていない。それどころか、部屋からは話し声一つ聞こえず、時折漏れ聞こえるのは、肺を病んでいるかのような痛々しい咳の音だけ。


「(……もしや、我が国の無礼に絶望し、食事も喉を通らないのでは……!?)」


 主人は恐怖に震えた。

 部屋の前に立つ漆黒の従者ケリーは、問いかけに一切答えず、ただ『そこに存在するだけで人を圧死させるような静寂』を纏っている。

 この異常な静寂は、宿の従業員たちの間で瞬く間に『悲劇の聖女』の噂として広まり、さらには王都の教会や貴族たちの耳へと届き始めていた。




 その頃、エシャン王宮は、かつてない怒号と混乱に包まれていた。


「門番は何をしていた! メネスの王女を門前に放置しただと!?」


「一部の者が騒いでおります! 『神々しい光を放つ聖女を、魔導障壁の調整などという下らぬ理由で追い返すとは何事か』と!」


 門番たちはすでに拘束されていたが、事態はもはや現場の責任では済まなくなっていた。

 メネス王国からの『親書』が届いたことで、貴族たちは責任の押し付け合いを始め、宰相は真っ青な顔で書類の山に埋もれている。


 誰も状況を制御できていない。

 ただ一つ確かなのは、アシュリー王女が『城からの正式な迎え』があるまで、宿から一歩も動かないという沈黙の意思表示を続けていることだけだった。




 エシェン国王執務室。

 ヴィンセントは、激しい胃の痛みを覚えながら報告書を叩きつけた。


「……彼女は、ほとんど食事も取らず、闇の中で過ごしているというのか」


(このままでは、後宮に入るどころではないのでは……!?)


 アロイスら側近たちが沈黙する。

 ヴィンセントの脳裏には、昨日見た『光り輝く自壊』の姿が焼き付いていた。

 彼女は抗議のために、自らの命を削っている。そして、その事実はすでに外交ルートでメネス本国へ『ありのまま』に伝わっているのだ。


「……迎えに行く」


「陛下!? 王自ら迎えにいくのは……いえ、この際何も言えません。ですが先触れもなく宿へ向かうなど、さらなる非礼と取られかねません!」


「構わん! これ以上彼女を放置すれば、メネスの王太子が軍を率いてこの国を更地にしに来る。……馬を出せ!」


 ヴィンセントは半ば『動かされる』ようにして、自ら馬を飛ばした。



 一時間後。王都の住人たちが驚愕の眼差しで見守る中、国王ヴィンセントが『月の雫亭』に到着した。

 王は泥を跳ね上げた姿で、最上階の部屋へと突き進む。


「……アシュリー殿! 入るぞ!」


 先触れも、許可も待たず、ヴィンセントは扉を押し開けた。

 そこにあったのは、完璧な闇。

 そして、騒乱など露知らず、寝椅子で穏やかにお昼寝をしていたアシュリーが、ゆっくりと瞬きをして顔を上げた。


「……あら、ヴィンセント様。驚きましたわ。そんなに慌てて、どうされたのですか?」


 ヴィンセントは、言葉を失った。

 自分は国を揺るがす危機に、死に物狂いで駆けつけたというのに。

 目の前の王女は、少し寝癖のついた髪を整えながら、まるで庭園の散歩に誘われたかのような、柔らかな微笑みを浮かべているのだ。


「エシャン王国の、準備は整いましたの?」


 アシュリーのその一言に、ヴィンセントは己の完敗を悟った。

 彼女は何もしていない。ただ、そこにいただけだ。

 それなのに、自分も、国も、彼女の手のひらの上で踊らされていたのだと。


「……ああ。準備は、すべて整わせた。城へ、参りましょう。アシュリー殿」


「ええ。喜んで伺いますわ」


 闇の中で満足げに立ち上がるアシュリー。

 エシャン王国に、静かな破滅の歯車が、確かに回り始めていた。

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