「沈黙の妃と、喋りすぎた帝国」
数日後、エシャン王宮には新たな緊張が走っていた。
事の発端は、数日前に東の離れで起きた”ドラゴンの卵”による強烈な魔力脈動だ。あの際、王宮の結界を内側から食い破った膨大な魔力の奔流は、国境を越え、北方の軍事大国”エルダリア帝国”の魔導観測網にまで到達していた。
(……やはり、嗅ぎつけられたか)
執務室で、ヴィンセントは不機嫌そうに”白い包帯”の巻かれた左手をさすった。
(……昨夜の血は、やや鉄分が足りなかったかもしれない。次は食事内容を見直す必要があるな……)
帝国は『近隣諸国の魔導災害への懸念』という名目で、早々に特使を送り込んできたのだ。その実態は、エシャンが手にした”未知の力”の正体を探るための、高圧的な偵察に他ならない。
この国家の窮地に、本来ならばエルダリアと親交の深いノル王国の王女・ダイアナが矢面に立つべきであったが――。
「……っ、ぁ、ぁ……」
ダイアナは自室の鏡の前で、掠れた声を絞り出そうとして絶望していた。
アシュリーから貰った”お薬”の効果で、ようやく少しは音が出るようにはなった。だが、その声はまだ砂を噛んだように低く、使い物にならない。
(このままでは、あの傲慢な帝国の連中に「エシャンの妃は喋ることもできぬ無能か」と、国家の品格を疑われてしまうわ……!)
ダイアナは焦っていた。帝国は交渉において、わざと難解な”帝国古語”を多用し、他国を威圧する伝統儀礼を重んじる。エシャンの通訳たちでは、その二重三重に張り巡らされた言葉の罠を捌ききれない。
そこでダイアナは、毒を食らわば皿までの心境で、一人の女の顔を思い浮かべた。
自分をこんな目に合わせた、あの恐るべき”暗殺狂の弟”を持つ、不気味な女。
(……そうだわ。この女に恥をかかせてやるついでに、この泥沼の接待を押し付けてやりましょう)
ダイアナは足早に東の離れへ向かった。
部屋の隅、闇に溶け込むようにソファに沈み込み、”ひび割れた卵”を愛おしそうに抱いているアシュリーの腕を、強引に掴む。
「……何、ダイアナ様。せっかく静かになったのに」
「ぅ、るさぃわね! ……今日の会談、あんたが代わりに出なさい!」
掠れた声でまくしたて、ダイアナはアシュリーを強引に立ち上がらせた。
嫌がらせのつもりだった。だが、彼女がアシュリーの手を引いて会場へと向かったのは、無意識の”期待”からでもあった。
王宮の大広間。
若き国王ヴィンセントを中心に、宰相マシュー、近衛騎士団長アロイス、側近デリクといった重鎮たちが、帝国の高圧的な空気に呑まれぬよう居住まいを正していた。
対するエルダリアの特使たちは、あえて難解な”帝国古語”を操り、エシャン側を冷徹に見下ろしている。
『――不自然な魔力脈動、近隣諸国への脅威とみなす。よって、法に基づき原因を調査したい。』
特使が尊大に言い放つ。
エシャンの通訳たちが古語の解読に手間取っているのを見て、特使は隠そうともせず嘲笑を浮かべた。
(このままでは、一方的に帝国の”法”を押し通され、王宮の中まで踏み荒らされてしまう……!)
マシューたちが焦燥を募らせる中、ヴィンセントの隣で喉を痛めたダイアナが、掠れた声で、背後に無理やり連れてきたアシュリーの袖を激しく引いた。
「(あんた、メネスの王女でしょう! 何とかしなさいよ!)」
アシュリーは、欠伸を一つ噛み殺した。
その仕草だけで、空気が一段、沈んだ。
特使の傲慢な態度が安眠を妨げるほどに鼻についたのか、ふいに冷淡な視線を上げた。
その光景を、大広間の高窓から見下ろす影があった。
「……ああ、やっぱり姉上だ」
エレベルは、頬杖をつきながら楽しそうに呟く。
「戦うより、あっちのほうがずっと怖いよね」
アシュリーはソファに深く沈んだまま、淀みのない、かつて特使すら聞いたことがないほど高貴な響きの”帝国古語”を口にした。
『――”不自然な魔力脈動、近隣諸国への脅威とみなす。よって、法に基づき原因を調査したい”……。それはつまり、どういうことかしら?』
特使が絶句する。広間にいたアロイスやデリクも、アシュリーから発せられた圧倒的な”格”に息を呑んだ。
そんな空気の中、特使のその後ろで副官の男が一人、無表情のままアシュリーを観察していた。
(……違う。この女は、“理解している側”だ)
副官の背筋に、微かな冷汗が流れる。
『あなた方はエシャンの言葉を解する者がいらっしゃらないのに、特使としてエシャン王国に来たの? ”脅威”とみなしているというのに、言葉の準備すらしてこないなんて余裕なことね。それとも、単に教養が足りないだけかしら?』
アシュリーの容赦ない追求に、特使は顔を真っ赤にして言い返そうとしたが、彼女はそれを言葉で封殺した。
『そもそも、その法を他国であるエシャンに適用しようとする根拠が薄いわ。……それに、忘れないで。私はメネスの王女でもあるのよ』
アシュリーは死んだような魚の目のまま、冷たく宣告した。
『エルダリア帝国の物流の三分の一は、我が母国メネスとの交易路に依存している。その中継地点であり、メネスの王女である私がいるこのエシャンを不当に揺さぶれば、メネスは即座に物流を停滞させるでしょうね。そうなれば、貴国の北西領は冬を越せずに飢えることになるけれど……。その覚悟があって、ここへ”調査”にいらしたのかしら?』
アシュリーの言葉は、単なる翻訳ではない。
”私(メネス王国の王女でもあるアシュリー)を不快にさせるなら、実家を使ってお前の国を干上がらせる”という、脅迫であった。
(……凄まじい。相手の矛盾を突き、背後の国力で殴りつける。これが修羅の国メネスの外交か)
ヴィンセントは戦慄と共に、アシュリーの”統治者”としての真価を再認識した。マシューやデリクも、彼女の有能さに驚愕し、密かに視線を交わす。
『……あ、いや。それは、その……』
『言い淀むのは、”無能”の証よ。……帰って、ちゃんと”共通語”を話せる人を連れてきなさい。……今すぐ。』
「……っ!申し訳ございませんでした!」
アシュリーの冷徹な圧力に屈した特使たちは、最敬礼をすると、逃げるように大広間を後にした。
広間に静寂が戻る。ダイアナはアシュリーの隣で、その圧倒的な存在感に呆然としていた。
「……終わったわ。もういいかしら、疲れたのだけれど」
アシュリーはいつの間にか、いつもの無気力な顔に戻り、ふらふらと東の離れへ帰ろうとする。ダイアナはその背中を追い、掠れた声を絞り出した。
「……ぁ、りが……と……」
「……え?」
「ぁ、りが……た、いなんて……思わ、な……いんだからねっ! 薬の”お返し”よ、これで貸し借りなしなんだから!」
(……でも、あの女、アシュリー様がいなければ、私は……)
その先を、ダイアナは自分で否定するように首を振ったダイアナは、顔を真っ赤にして足早に去っていった。
プライドの高い王女が、自分を遥かに凌駕する格の存在に触れ、どうしようもなく翻弄され始めた瞬間であった。
「……アシュリー殿、あなたは確かにメネスの王女だったんだな……礼を言う。……さあ、今日は好きなだけ……!」
興奮して包帯を外そうとするヴィンセントを、アロイスが「陛下、公の場です!」と必死に羽交い締めで止める。
「……いらないわ」
アシュリーは一言で王を撥ね付け、自分の闇へと帰っていった。
こうして、エシャン王宮には『無気力な翻訳王女』という、新たな伝説が刻まれることとなった。




