「届かない筆談と、姉のお説教」
翌朝、エシャン王宮の静寂は、昨日までとは質の違う"不穏さ"を孕んでいた。
後宮の主、ダイアナ妃が突如として”喉の不調”を訴え、一切の声が出なくなったという知らせは、瞬く間に王宮内を駆け巡った。
当のダイアナは、震える手で筆を握り、目の前の男に羊皮紙を叩きつけていた。
『陛下! 昨夜、エレベル殿下に襲われました! 彼は毒針を使い、私の声を奪ったのです!』
必死の形相で訴える彼女の前に立つのは、エシャンの王、ヴィンセントである。だが、彼の瞳はダイアナの筆跡を追っているようでいて、その実は全く別の場所を彷徨っていた。
「……声が出ないのか。 急に冷え込んだからな。風邪でも引いたのではないか。医師に診てもらって、無理せず自室で休んでいるがいい」
ヴィンセントは、ダイアナの必死の告発を”体調不良”の一言で片付けると、自らの左手に巻かれた"白い包帯"を愛おしそうに撫でた。
「(陛下! 話を聞いてください! あの男は危険です! 私は被害者なのですよ!)」
ダイアナが激しく紙を叩く。だが、ヴィンセントは心ここにあらずといった様子で、独り言のように呟いた。
「昨夜は、実においしそうに飲んでくれた……。次はもう少し、滋養のある食事を摂り、血の質を上げねばならんな
(この男、もう手遅れだわ……!)
ダイアナは、筆を握ったまま絶望に震えた。
王としての責任感も、他国の王女への配慮も、すべてはアシュリーという名の"異常な執着"の中に溶けて消えていた。
ヴィンセントにとって、ダイアナの訴えなど”静寂を維持するための些事”に過ぎない。むしろ、彼女が静かになったことで、アシュリーの安眠が守られるとさえ考えている節があった。
その頃、東の離れ。
サリーとケリー、ユーリは部屋の隅で待機していた。
それは、ニコニコと紅茶を淹れているエレベルがいるからだ。
アシュリーはそんな弟を薄い目で見つめていた。
「……エレベル。ダイアナ様の喉を壊したのは、あなたね?」
「え? 何のことかな、姉上」
エレベルは天使のような笑顔を崩さない。だが、アシュリーには分かっていた。この弟が「善意」という名の掃除を始めた時の手口を。
「……やりすぎよ。あの方はこれでも、ノル王国の王女なの。他国の妃に勝手に手を出すのは感心しないわ。これ以上、私を面倒なことに巻き込まないで」
「でも、あの女は姉上を"不快"な場所へ連れ出しただろ? 姉上の安眠を邪魔するものは、たとえ王女だろうと神だろうと、僕にとっては"ゴミ"でしかないんだ」
エレベルの瞳から一瞬、どす黒い光が漏れ出す。
だが、アシュリーは溜息をつき、そのプラチナブロンドの髪を、面倒くさそうに、けれど優しく撫でた。
「……言い訳は聞きたくないわ。一応、"反省"しなさい。……でも、私の安眠を考えてくれたことだけは、認めてあげる」
その瞬間、エレベルの顔がぱっと輝いた。
「! はい! 反省します、姉上! 次からはもっと、気づかれないように処理しますね!」
「……そういう意味ではないのだけれど」
アシュリーのお説教は、エレベルにとっては極上の"ご褒美"でしかなかった。
アシュリーという抑止力すらも、このシスコン弟にとっては”自分を見てくれている”という喜びのガソリンになってしまう。
数日後。
声が出ないまま、筆談で必死に王宮内を立ち回るダイアナの姿があった。
彼女は、自分をこんな目に合わせたエレベルを呪い、自分を無視するヴィンセントに憤っていた。
しかし。
東の離れを通りかかった際、アシュリーが「……これ、喉に効く"お薬"よ」と、無愛想に小瓶を差し出した。
(な、何よこれ! 私をこんな目に遭わせた元凶(の弟を持つ姉)のくせに、今さら同情!? 冗談じゃないわ! ……でも、せっかく用意したのなら、少しだけ、飲んであげなくもないけれど!)
ダイアナは何も言わず、小瓶を受け取った。
ダイアナの心の中に、新たな、そして極めて厄介な"感情の芽"が芽吹き始めていた。
それは、エシャン王宮に渦巻くカオスが、新たな毒素を取り込んだ瞬間であった。
アシュリーという底知れない怪物に、周囲の人間たちが一歩ずつ、確実に毒されていく。




