「血で結び、静寂に閉じる」
東の離れの部屋。
ヴィンセントは一瞬躊躇ってから決死の覚悟で、自らの右腕を彼女の前に差し出した。
王は、最強の捕食者による凄惨な略奪を覚悟し、その身を捧げる覚悟を固めていた。
「私の血だ。好きなだけ、食らうがいい」
アシュリーは一瞬、きょとんとしてヴィンセントの腕を見つめた。
そして、少しだけ眉を下げ、「……それじゃあ、遠慮なく」と呟くと、彼の腕を両手で引き寄せた。
――カプッ。
静かな夜の空気に、拍子抜けするほど可愛らしい音が響いた。
ヴィンセントは身を強張らせて痛みを待ったが、数秒経っても、十数秒経っても、鋭い牙が肉を貫く感覚は訪れない。
「……? アシュリー殿?」
「…………はむ。……カプッ、……んんんーっ」
アシュリーは一生懸命、ヴィンセントの腕に噛みついていた。だが、それは吸血というよりは、子猫が甘噛みをしているような、あるいは柔らかいパンを解体しようとしている子供のような、ひどく無害な感触だった。
「…………やっぱり、ダメだわ」
アシュリーは、心底がっかりした様子で口を離した。
ヴィンセントが自分の腕を見ると、そこにはうっすらと歯型がついているだけで、傷一つ付いていなかった。
「……吸えないのか?」
「……そうよ。私、先祖返りだからなのか、"不完全"なのよ。みんなが思っている吸血鬼のような、鋭い牙なんて持っていないのよ。……はあ。直接吸血するなんて、私には無理だったわ」
アシュリーは気まずそうに視線を逸らした。
世界を滅ぼす災厄と恐れられた吸血鬼の正体は、自力で血を飲むこともままならない、意外にも脆い存在であった。
「……すまない、私が無知だった」
ヴィンセントは、なぜか湧き上がってきた猛烈な保護欲を抑え込んだ。
そして、制御しやすく、”差し出す行為として象徴的な”左の掌を短剣で鋭く切り裂いた。
「……っ」
溢れ出した鮮血が、夜の闇に濃厚な"芳香"を撒き散らす。
「これならどうだ。……エシャン王家の血脈、そのすべてを貴殿に捧げよう」
アシュリーの瞳が、再び紅く輝いた。
彼女はヴィンセントの掌を包み込み、そこから溢れる雫を、慈しむように唇で受け止めた。
王自らが"餌"となり、不完全な怪物を箱庭へと連れ戻す。
「……ええ。温かくて、とても"綺麗"な味ね。約束よ、ヴィンセント。あなたが美味しいものをくれるなら、私はまだ、あの静かな場所にいてあげる」
深夜。王宮の東の離れ。
再び訪れた"静寂の檻"の中で、アシュリーはソファに深く沈み込み、既にうとうとしていた。
そこへ、騒ぎを聞きつけた聖女ヘレナが乱入してきた。
「陛下! 何ということを! 汚れた俗世の王の血など、あの方の聖なるお体には毒ですわ!」
ヘレナは自らの手首を誇示するように突き出した。
「私の血こそ、神の加護を受けた純潔なる"聖餐"! あの方に相応しいのは、この聖女ヘレナの慈愛に満ちた糧だけです! さあアシュリー様、今すぐこちらを!」
「……今はもう、お腹いっぱいよ」
アシュリーは膝の上で微かに脈打つ卵を撫で、興味なさそうに視線を逸らした。
王と聖女が、一人の少女に『自分の血を飲め』と競い合う地獄絵図が、静寂の王宮で繰り広げられていた。
一方、後宮の一角。
今回の"夜の散歩"を裏で仕組んだダイアナは、自室で震えていた。
だが、彼女の部屋に音もなく現れたのは、王の裁きではなかった。
「……ねえ、ダイアナ妃」
暗闇から、鈴の音のような声が響く。エレベルだった。
彼は不敵な笑みを浮かべ、手に持った銀のトランクをパチンと開けた。
「君の提案は面白かったよ。おかげで姉上が少し元気になった。……でもさ、姉上を危ない目に合わせた報いは、ちゃんと受けなきゃね」
「……っ、エレベル殿下!? 礼儀を欠いた真似を……私はノル王国から来た妃なのですよ!」
「わかってるよ。……でもさ、それなら姉上だって、メネス王国から来た妃だ。それにね、君は少し喋りすぎだ。姉上の安眠の邪魔になるくらいに」
エレベルは、ダイアナの目の前でトランクから一本の細い針を取り出した。
「これ、数日間”声が出なくなる”薬なんだ。……わかったら、静かに"反省"しててね」
メネスの王子にとって、他国の外交問題など、姉の不機嫌に比べれば埃のようなものでしかなかった。
翌朝、ダイアナ妃が『喉の病』を理由に静養に入ったという知らせが届く。
アシュリーの安眠を巡るエシャン王国のカオスは、今夜もまた一つ、形を変えて深まっていく。
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