「真夜中の捕食者」
深夜、エシャン王宮。
国家総力で維持されている”完璧な静寂”の結界が、内側から音もなく霧散した。
「……やはり、ここの空気は薄すぎるわね」
アシュリーは、サリーとケリーを引き連れ、東の離れの庭園へと足を踏み出した。
ヴィンセントが敷いた静音結界は、音を消すだけではなく、魔力の流れすらも固定化し、生命の揺らぎを排除してしまっていた。それは人間にとっては”究極の安眠環境”かもしれないが、夜を生きる吸血鬼にとっては、水のない水槽に閉じ込められているような息苦しさだったのだ。
「アシュリー様、どちらへ?」
「……少し、血の匂いがするところへ。ここには、生きているものの気配がなさすぎるわ」
アシュリーの瞳が、暗闇の中でうっすらと紅く発光した。
同時刻、王宮の監視塔。
「……結界の強度が、東の離れ周辺で急落しています!」
魔導師の悲鳴のような報告に、仮眠を取っていたヴィンセントが跳ね起きた。
「なんだと!? またドラゴンの卵か!?」
「いえ、違います! 何かが……いえ、アシュリー様が、結界を物理的に踏み越えて、王宮の外へ向かわれています!」
ヴィンセントの顔から血の気が引いた。
自分が心血を注いで整えた”箱庭”を、彼女は一蹴して出て行った。それは、制御不能な厄災が野に放たれたことを意味する。
「……馬を出せ! 全速力で追うぞ! 絶対に彼女を刺激するな! なるべく誰にも見せるな!」
一方、王宮からほど近い下町の路地裏。
ダイアナがエレベルと結託して仕掛けた”適度な刺激”――すなわち、あえて結界に穴を開け、獲物を誘い出す餌が撒かれていた。
「……殿下、あちらですわ」
ダイアナは、暗がりに潜みながらエレベルに囁いた。
路地の先には、ダイアナが裏ルートで手配した、柄の悪い浮浪者や賞金稼ぎたちが数名、酒を煽りながらたむろしている。
「あの者たちに、アシュリー様を少しだけ驚かせてもらいましょう。そうすれば、彼女も退屈を紛らわせ……」
「……面白いね。でも、驚かせるだけで済むかな?」
エレベルは、建物の屋根の上で、月明かりを浴びて楽しげに笑った。
彼の視線の先。暗闇から、音もなく銀髪の少女が姿を現した。
「……あら」
アシュリーは、酒の臭いと、下卑た笑い声、そして何より――生き物の”生々しい拍動”が渦巻くその場所に、吸い寄せられるように立ち止まった。
「おいおい、なんだこの上等な女は」
「迷子か? おじさんたちが……案内してやるよ」
男たちが、ぎらついた目でアシュリーを囲む。
ダイアナは影でほくそ笑んだ。恐怖を与え、王宮の静寂こそが安全だと再認識させる。それが彼女の狙いだった。
だが。
「……そう」
アシュリーの声は、震えていなかった。
むしろ、深海のように静かで、恐ろしいほどの悦びに満ちていた。
「サリー、ケリー。……少し、新鮮なものが欲しくなったわ」
「畏まりました、お嬢様」
次の瞬間、路地の空気が物理的に”凍りついた”。
従者二人が動くよりも早く、アシュリーの周囲に渦巻く“無の領域”が、男たちの絶叫すらも飲み込んで展開された。
「……っ、何だこれ! 体が動かねえ!」
「ひっ、目が……目が赤く……!」
アシュリーが、一歩、前へ踏み出す。
彼女の指先が、最前列にいた男の首筋に、冷たく、優しく触れた。
「……静かにして」
「アシュリー殿!!」
そこへ、ヴィンセントが近衛騎士たちと共に駆け込んできた。
彼が目にしたのは、恐怖に泣き叫ぶ男たちの中心で、月光を浴びて神々しく、そして悍ましく輝く”捕食者”の姿だった。
「……ヴィンセント。あなたも、外に出てきたの?」
アシュリーが振り返る。その口元は口角が上がっていた。
「……あ」
ダイアナは影で絶句した。
コントロールなど、最初から不可能だったのだ。彼女が仕掛けた”刺激”は、眠れる怪物の食欲を呼び覚ます、最悪の呼び水に過ぎなかった。
「……陛下、見てください」
エレベルが、ヴィンセントの隣に音もなく降り立ち、耳元で囁いた。
「姉上、すごく楽しそうだよ。……やっぱり、あの静かな王宮は死んでいたんだね」
ヴィンセントは、膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪えた。
奇しくも自分が守ろうとしていたのは、彼女の安眠ではなく、彼女という災厄から世界を守るための”蓋”だったのだと、今さらながらに思い知らされた。
「……アシュリー殿。戻ろう。……ここよりずっと、上質なものを用意する。だから……」
ヴィンセントの言葉に、アシュリーは小首を傾げた。
その瞳に宿る紅い光は、もはや理屈で制御できるものではなかった。
「……そう。なら、楽しみにしておくわ」
アシュリーは満足げに微笑み、再び闇へと溶けるように歩き出した。
王宮へ戻る彼女の背中を、ヴィンセントはただ、戦慄と共に守るしかなかった。
静寂の結界は、もはや意味をなさない。
王宮は今夜、一人の少女の食卓へと、その姿を変えようとしていた。




