「世界が滅びる寝心地」
その異変は、深夜、エシャン王宮の全域を襲った『音のない震動』から始まった。
誰一人、音を聞いていないのに“揺れた”と理解した。
最初は、わずかな目眩のような揺れだった。だが、瞬く間にそれは物理的な浸食へと変わる。東の離れを中心として、地面が生き物のようにドクン、ドクンと不気味に脈動し始めたのだ。
王宮を幾重にも守護していた最強の結界が、悲鳴を上げるように軋む。
「……報告しろ! 敵襲か!? どこからの攻撃だ!」
執務室を飛び出したヴィンセントが叫ぶ。だが、駆け寄ったマシューの顔は土気色を通り越して真っ白だった。
「……いえ、陛下。結界は外部からの攻撃を受けていません。……“内側”から、食い破られようとしています。発信源は……東の離れです!」
「……っ、アシュリー殿か!!」
王宮内は、かつてないパニックに陥っていた。
理由なき重圧に騎士たちが次々と嘔吐して膝をつき、宮廷魔導師たちは「既存の魔法体系が通じない! 術式が分解されている!」と半狂乱で叫んでいる。
後宮では、イデリーナたちが「またあの女なの!?」「今度は世界を壊す気!?」と抱き合って震え、一方で聖女ヘレナだけが、崩壊しかける回廊で「ああ……世界の胎動……聖なる産声が聞こえる……!」と法悦の表情で祈りを捧げていた。
空が紫黒に歪み、魔力の嵐が王宮の尖塔を削り取る。
臨界点。
(ここで止めねば、この国は終わる)
ヴィンセントは、死を覚悟して東の離れの最奥へと突入した。
「アシュリー殿!! 今すぐそれを――」
叫びは、喉の奥で凍りついた。
そこは、完全なる静寂の極致だった。
外の嵐が嘘のように、アシュリーはソファでいつものように目を閉じている。その膝の上には、どす黒い光を放ち、今にも弾けんばかりにひび割れた『卵』があった。
その傍らで、エレベルが楽しそうに卵のひびを指でなぞっている。
「あ、ヴィンセント陛下。ちょうどいいところに来たね。ほら、もうすぐだよ」
「……何がだ、エレベル殿下……!」
「孵化。中の子が、外の空気を吸いたがってるみたいだ」
ピキ、と。
……割れた殻の隙間から、“何か”が覗いた。
一際大きな亀裂が走り、中から黄金色に光る“巨大な瞳”が、ヴィンセントを射抜いた。
一国を更地にする厄災の化身。その胎動が、王宮の物理法則を粉々に粉砕しようとした、その時。
「……うるさいわ」
アシュリーが、眉を寄せて薄く目を開けた。
彼女は、今にも世界を焼き尽くさんとする卵を――『寝苦しい原因の抱き枕』を叩くような手つきで、ぺし、と雑に一度だけ無造作に撫でた。
「……静かにしなさい。眠れないじゃない」
その一瞬。
狂い狂った魔力の嵐が、ピタッ、と。
まるで主人の叱責を受けた子犬のように、一瞬で収束した。
空の歪みは消え、脈動していた地面は沈黙し、ひび割れた卵からは光が失われ、ただの『ひんやりした抱き枕』へと戻ったのである。
「……あ、やっぱり姉上が抱き直すと落ち着くんだね。まだ外に出るには早かったかな」
エレベルが、何でもないことのように笑う。
ヴィンセントは、抜いた剣を握りしめたまま、その場にがくりと膝をついた。
「…………」
「あ、陛下。アシュリー様、二度寝に入られましたので。廊下の足音、気をつけてくださいね?」
マシューが乾いた声で補足する。
終わっているのは、この世界か。それとも、私の理性か。
翌朝。
王宮の被害報告書を前に、ヴィンセントはもはや笑う気力もなかった。
尖塔の一部は崩落し、地面には巨大な亀裂が走り、魔導師の半分が再起不能。だが、原因は「アシュリー殿の寝心地が悪かったから」で片付けられてしまった。
東の離れを窓から見下ろしながら、ヴィンセントは虚空を見つめた。
(……抑止装置。彼女は、王女でも怪物でもない。この国そのものを、存在させるか消滅させるかを決める、絶対的な天秤なのだ)
「やっぱり姉上のところが一番安全だね、あの卵も」
エレベルの楽しげな声が、風に乗って聞こえた気がした。
ヴィンセントは、震える手で濃い茶を飲み干した。
世界が滅びるのを止めたのは、正義でも勇気でもなく、ただ一人の『安眠への執着』だった。その事実に、有能な王は深い絶望と、そしてどうしようもない安堵を覚えるのだった。




