「厄災の抱き枕」
その日、東の離れの”闇”は、かつてないほどに濃密な緊張感に包まれていた。
ヴィンセントはマシューとアロイスを引き連れ、薄暗い廊下を歩きながら、胃の底に鉛を流し込まれたような重みを感じていた。
(……アシュリー殿と、あのエレベル王子。二つの”世界のバグ”が一つ屋根の下に揃う。これが最悪の化学反応を起こさないはずがない)
ヴィンセントの予感は、扉を開けた瞬間に的中することとなる。
「……姉上! ここ、最高に暗くて落ち着きますね!」
部屋に入るなり、エレベルははしゃいだ声でアシュリーに歩み寄っていた。対するアシュリーは、ソファの上でいつものように気だるげに目を細めている。
「……来たのね。少し、声が大きすぎるわよ、エレベル」
「ごめんなさい! 嬉しくてつい。サリーとケリーも久しぶりだね!……あ、そうだ姉上!手紙に書いてた『冷たい石』ってどこですか?」
ヴィンセントたちの心臓が跳ね上がった。
「それを見せては……!」
「刺激しては……!」
側近たちの悲痛な心の叫びも虚しく、アシュリーは「そこよ」と、無造作に置かれていた“それ”を指差した。
空間を歪め、光を屈折させ、近づく者の精神を削り取る、あの異常な物体。
触れることすら不可能だったはずのそれを、エレベルは迷うことなくそれをひょいと持ち上げた。ヴィンセントたちの思考が白く染まる。
「あはは、やっぱり! 姉上、これ凄いですよ」
エレベルは、空間の歪みなど一切感じていないかのように、石を太陽にかざすような気軽さで眺め――そして、あっさりとその正体を告げた。
「これ、闇属性のドラゴンの卵じゃん」
「…………え?」
ヴィンセントの口から、間の抜けた声が漏れた。
王宮魔導師たちが解析不能で泡を吹いた代物を、この青年は、道端の石の種類を当てる程度の軽さで断定したのだ。
「これね、孵化すれば一国が更地になるレベルの厄災になるよ。空間の歪みは、未熟な中身を守るための殻の防衛機能なんだよ。普通なら触れることすら不可能だね」
エレベルは感心したように石をコンコンと叩く。
騎士団が命がけで撤退したあの”触れてはいけない領域”の正体。それは、災害級の生き物が放つ、ただの自衛本能に過ぎなかった。
「……そんなものを、今まで素手で……?」
ヴィンセントは戦慄した。だが、エレベルの次の言葉は、その戦慄をさらに斜め上の絶望へと叩き落とした。
「いいもの拾いましたね、姉上! どうします? これ、茹でて食べます? 闇ドラゴンのゆで卵、僕も食べてみたいな」
((((茹でるな!!))))
ヴィンセント、マシュー、アロイス。そして背後で祈りを捧げていた聖女ヘレナまでもが、心の中で見事な四部合唱のツッコミを炸裂させた。
世界級の厄災を、朝食の献立か何かと勘違いしている。この男の倫理観だけでなく、常識そのものが破壊されていることを、彼らは今度こそ命がけで理解した。
だが、その混沌を制したのは、やはりアシュリーだった。
「……ダメよ」
アシュリーは、心底面倒くさそうにエレベルの手から石――卵を奪い返した。
「それ、ひんやりしてて気持ちいいのよ。茹でたら温かくなっちゃうじゃない。ダメ。返して」
アシュリーは再び卵を抱きしめ、ソファに沈み込んだ。
世界にとっては、滅亡の種。
エレベルにとっては、珍しい食材。
だが、アシュリーにとっては、”快適な寝具”であった。
この四段階に及ぶ絶望的な認識のズレを前に、ヴィンセントはもはや笑うことすらできず、現実逃避のためにマシューの肩を借りてよろめいた。
「……陛下、しっかりしてください」
「マシュー……私は、夢を見ているのか……?」
聖女ヘレナは「ああ、ドラゴンの卵すら安眠の道具とされるとは、やはりあの方は世界の理……」と、独自の解釈で祈りを深めている。
そんな中。
エレベルは、卵を抱きしめるアシュリーの横顔を見つめながら、ふと、思い出したように補足した。
「ああ、そういえば姉上。言い忘れてたけど」
エレベルの瞳が、一瞬だけ、笑みを保ったまま氷のように冷たく光った。
「これ、もう孵化しかけてるね。ひび割れが始まってるし」
「…………」
「……よく見て。ほら、ここ」
部屋中の空気が、凍りついた。
ヴィンセントの胃が、過去最大級の悲鳴を上げる。
「まあ、姉上が抱いてる間は大人しくしてると思うけど。……外に出たら、どうなるかな」
エレベルは無邪気に笑う。
抱き枕の中身が、世界の終わりの産声を上げようとしている。
不穏すぎる爆弾を抱えたまま、エシャン王宮の長い一日はまだ終わる気配を見せなかった。




