「ようこそ、壊れている側へ」
メネス王国第三王子、エレベルの来訪当日。
エシャン王宮の正門前には、王ヴィンセントを筆頭に、重臣、近衛騎士団、そして後宮の妃たちまでが勢揃いしていた。
空気は、痛いほどに張り詰めている。
大国の王族を迎える華やかな式典の顔を作りながらも、ヴィンセントや側近たちの内心は冷や汗で濡れていた。誰一人として、この訪問を”外交”として受け止めてはいなかった。
――これは、“災害の迎え入れ”である。
やがて、城門の先にメネスの使節が現れた。
しかし、その光景にエシャン側は息を呑むこととなる。
たった二人。
大国の王子を護るべき屈強な近衛兵の列も、身の回りを世話する従者の群れもない。
ただ、黒を基調とした豪奢な衣服を纏う青年と、その後ろに影のように控える一人の従者のみ。
あまりにも、少なすぎる。
「……あれが、第三王子……?」
騎士の一人が、思わず呆然と呟く。
エレベルは、ゆっくりと歩いてくる。
プラチナブロンドの髪が風に揺れ、透き通るような白い肌には天使のように無垢な笑みが浮かんでいた。その歩みは穏やかで、優雅で――そして。
周囲の空気だけが、圧力で微かに軋んでいた。
「…………」
ヴィンセントは無言でそれを見据える。
(来たか……)
だが、警戒を強めるエシャン陣営を前にして。
エレベルは、隣の従者に小さく、本当に世間話でもするかのように話しかけた。
「ねえ、ユーリ」
「なんです?」
「ここにいる人たちさ」
にこり、と。
柔らかな笑みを浮かべたまま、エレベルは言った。
「メネスなら、誰一人生き残れなさそうだね」
「そうですね」
従者も、今日の天気を肯定するように感情のない声で頷いた。
「三日もあれば、綺麗に更地かな」
「それなら、むしろ半日で足りるのではないですか?」
その会話は、あまりにも自然で、軽かった。
だが、本来聞こえる距離ではないのに、なぜか耳に入ってきたヴィンセントと側近たちの背筋に、氷をねじ込まれたような悪寒が走る。
「…………」
(今……何と言った……?)
誰も、何も言えない。戦力差、そして何より決定的な”倫理観の欠如”を一瞬で突きつけられたのだ。
だが、エレベルは何事もなかったかのように歩み寄り、完璧な所作で優雅に一礼した。
「お初にお目にかかります。エシャン国王、ヴィンセント陛下」
「……歓迎しよう、エレベル殿下」
形式的な挨拶。
だが、その一言一言に、見えない刃が交錯していた。
そのとき。
エレベルの視線が、ふと横へ流れる。
ずらりと並んだ後宮の妃たち。大国の王子に色めき立ち、熱っぽい視線を送るイデリーナやエリーゼたちを無関心に通り過ぎ――。
一瞬だけ、ノル王国出身の妃、ダイアナと目が合った。
「…………」
ほんの一瞬。
エレベルは、わずかに目を細めた。
「ああ、これだけは少しマシか。まだ使える」
背筋を伸ばし、他国の王女としてのプライドを保って立つ彼女を、評価するように。測るように。
だが、それ以上の興味は示さない。
すぐに視線は外れ、エレベルはヴィンセントへと向き直った。
(……今のは、何?)
ダイアナの背筋に、ぞくりとしたものが走る。
美しい青年に見つめられた高揚感など微塵もない。彼女は本能で理解していた。あれは女として見られたのではない。“障害物としてどの程度の硬さか、値踏みされた”のだと。
そして、次の瞬間。
エレベルは、天使の笑顔をパツンと切って捨てた。
「姉上は?」
まるで他のすべてに興味がないかのように、ただそれだけを問う。
空気が変わる。
ヴィンセントが用意していた歓迎の言葉も、今後の外交スケジュールの説明も、すべてが物理的に遮断された。
「……東の離れにおられる」
「そう」
その一言で。
エレベルの関心は、完全に“そこだけ”へと収束した。
「案内してくれる?」
外交も、歓迎の宴も、国の序列も。
すべてを完全に無視して、エレベルは当然のように要求した。
「姉上に会いに来ただけだから」
ヴィンセントのこめかみに、微かに青筋が浮かぶ。
(……やはり、そう来るか)
準備に追われた日々など、この男の前では何の意味もなさない。
彼にとって重要なのは、国益でも持て成しでもない。ただ一人、アシュリーだけなのだ。
この日から、エシャン王宮は本格的に『壊れている側(メネスの常識)』へと飲み込まれていくこととなる。




