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嫁ぎ先が滅びた出戻り王女の再婚〜最強は、だいたい無気力でできている〜  作者: 薄氷薄明


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「深淵より恐ろしきもの」

 北部の森からエシャン王宮への帰還。

 それは、出発時とは全く異なる空気に包まれた凱旋であった。


 装甲馬車から降り立つアシュリーを見る騎士たちの目は、”病弱な王女”を見るものではない。理解不能な神域を見る、絶対的な畏怖に満ちていた。

 聖女ヘレナに至っては、アシュリーが歩く道に塵一つ落ちていないかを血眼で確認し、常に祈りを捧げる完全な狂信者と化している。教会を後ろ盾に持つ妃という立場すら忘れ、今や彼女は『アシュリー教の筆頭神官』であった。


 だが、ヴィンセントと側近たちの胃を最も痛めつけていたのは、周囲の評価の変化ではない。

 アシュリーが大事そうに抱えて持ち帰ってきた、あの『空間を歪める石』の存在であった。


「……陛下。王宮魔導師たちの鑑定結果が出ました。『解析不能。魔力を流した者が三名、泡を吹いて倒れました』とのことです」


 執務室にて、マシューが死人のような顔で報告する。


「だろうな。……なぜ、あんな危険物を王宮に持ち帰ってしまったのか」


 ヴィンセントが頭を抱えると、マシューとアロイスも同時に重い溜息を吐いた。


「止めましたよ。我々全員で」


「ええ。ですが、アシュリー様は石を抱きしめたまま『いやよ。これ、ひんやりしてて気持ちいいもの』と仰った。……陛下、あそこで無理やり取り上げることができましたか?」


「……無理だ。万が一彼女の機嫌を損ねてみろ。石が爆発する前に、国が情報の闇に沈む」


 主従は顔を見合わせ、深く、絶望的に同意した。

 結果として、正体不明の厄災の石は現在、東の離れの完璧な闇の中で、アシュリーの『極上のひんやり抱き枕』として絶賛活用されていた。



 だが、真の試練はそれだけでは終わらなかった。

 数日後、メネス王国からエシャン王宮へ、一通の親書が届いたのだ。


「メネスの第三王子が、我が国を訪問するだと?」


「はい。アシュリー様が毎日の手紙に『冷たくていい石を拾った』とお書きになったそうで。そろそろ妹の顔を見に行こうと思っていた第三王子・エレベル殿下が、ついでにその石も見たいと……」


 大陸一の武力国家の、第三王子。

 ヴィンセントはすぐさま東の離れへ向かった。アシュリーの身内が来るとなれば、完璧な接待を用意しなければならない。


「……アシュリー殿。貴殿の弟君、エレベル殿下が来られるそうだな。どういった持て成しを好まれる? 彼は、どのような人物なのだ?」


 闇の中で石を撫でながら、アシュリーは心底憂鬱そうに息を吐いた。


「……エレベルが、来るのね」


「ああ。メネスの王族となれば、その御力も測り知れない。何か気をつけるべきことは――」


「陛下」


 アシュリーの声が、いつになく低く、明確な警戒に震えていた。

 ヴィンセントは息を呑む。あの、世界を歪める領域にも顔色一つ変えなかった彼女が、感情を揺らしているのだ。


「私は……あの子が一番怖いと思っているのですわ。本当に、恐ろしいのよ」


 ピシリ、と。

 ヴィンセントと側近たちの思考が凍りついた。


「……エレベルは、一見するととても儚げで、大人しい方よ。でも……頭がおかしいの。以前、カイルお兄様がエレベルの欲しがっていた魔女の劇薬をプレゼントしたのね。そうしたら、エレベルは”お礼”だと言って……」


「お、お礼として……何を? ……いや、待て。聞きたくない!」


 ヴィンセントは思わず片手を突き出し、その先の言葉を全力で遮った。生存本能が『これ以上聞いてはいけない』と激しく警鐘を鳴らしたのだ。

 アシュリーは静かに目を伏せ、ぽつりと結論だけを口にした。


「……“お礼”の仕方が、普通ではないの……弟は、倫理が破綻しているんだわ。関わらないのが一番」


 しんと、執務室が静まり返る。


(……善意で、もしや……?


(あのアシュリー様にこれほど言わせるお人とは……?)


(メネス第三王子……一体、何をしたというのだ!?)


 ヴィンセントたちにとって、その言葉は『歩く大災害の接近予告』と同義であった。




 一方で、この来訪の知らせに、全く別の意味で沸き立っている者たちがいた。


「メネスの第三王子殿下が、いらっしゃるのね!」


 イデリーナ、エリーゼ、メリッサといった、後宮で影の薄かった妃たちは、熱に浮かされたように歓喜の声を上げていた。


 ノル王国の王女であるダイアナは、他国の王族としての高いプライドと自国の問題があるため、この浮かれた騒ぎには加わらず、自室でギリギリと歯噛みをしている。

 だが、イデリーナたち三人は違った。本来、彼女たちはヴィンセントの妃である。他国の王子に色めき立つなど不敬極まりない。しかし、現在のエシャンの後宮は、狂信者と化した聖女ヘレナによる『静かなる粛清』の嵐が吹き荒れる地獄と化していた。

 いつ修道院送りにされるか分からない恐怖。さらに、王の寵愛は西棟の不気味な王女に注がれている(ように見える)。


「今の陛下より、よほど“愛される可能性”があるもの」


(こんな薄気味悪い後宮、一刻も早く抜け出したいわ……!)


(大陸最強の国家の王子……もし彼の目に留まれば、妃の座を捨ててでもメネスに逃げられるかもしれない!)


 彼女たちにとって、アシュリーが恐れるサイコパス王子など知ったことではない。後宮は今や、一縷の望みをかけたエレベル王子を巡る、華やかな社交界の準備で持ちきりとなっていた。




 その夜。

 浮き足立つ後宮の空気とは裏腹に、執務室は重苦しい絶望に沈んでいた。


「……マシュー。王都の防衛レベルを最高段階へ引き上げろ。各所に結界を張り巡らせるんだ」


「はっ……。ですが陛下、相手は『善意で肉親の首を刎ねる暗殺者おそらく』です。並の結界が通用するでしょうか」


「やるしかないだろう! ただでさえ得体の知れない空間バグの石を抱えているのだ。そこに、あのアシュリー殿が『一番怖い』と評する究極の王子がやってくるんだぞ……!」


 ヴィンセントは、窓の外の東の離れを見つめた。

 あの闇の中で、アシュリーは今頃、恐るべき弟の襲来に震えているのだろうか。


(私が……私が、彼女を守らねばならない。そんな第三王子から)


 ――いや。違う。


 ヴィンセントの胸の奥で、王としての理性を焼き尽くすような、どす黒い熱が弾けた。


(守らねばならない、ではない。私はただ――あの女を、誰にも触れさせたくない。たとえ、それが血を分けた弟であろうと)


 他国の王子だろうと、肉親だろうと関係ない。

 自分の用意した完璧な闇の中で、自分の持っていく食事だけを口にし、静かに眠っていてほしい。

 有能な王の瞳に、悲壮な決意と、ますます深まる無自覚な執着(独占欲)が宿る。


 脱出のチャンスに浮かれる後宮の女たちと。

 自分の本当の感情に気づき始めた有能な王と。

 そして、「また倫理のない奴が来るわ……」と心底嫌そうに石を抱くアシュリー。



 絶望的なまでの認識のズレを抱えたまま、エシャン王国はかつてない最大の試練『エレベル王子(暗殺狂シスコン)の襲来』を迎えようとしていた。

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