「触れてはいけない領域」
北部の森の最深部。
進軍を続ける討伐隊の周囲から、唐突に”音”が消えた。
誰かが何かを叫んだはずなのに、その声は誰の耳にも届かなかった。
風が葉を揺らす音も、虫の羽音も、自らが踏みしめる足音すらも遠く霞む。
空気が異様に重い。水の中に沈められたかのような圧迫感が、騎士たちの体力を削り取っていく。
「……穢れでは、ありません」
聖女が、震える声で呟いた。
彼女の異能は、悪意や不浄を正確に感知する。だが、この空間を満たしているのは魔物の瘴気ではない。
「これは……この場所そのものが、歪んでいます」
開けた空間の中央。
そこに、『それ』はあった。
人の頭ほどもある、石のような物体。
その石を中心に、空間そのものが陽炎のように歪み、捻れている。音が反響せず、生命の気配が吸い込まれて消えていく、絶対的な異常領域。
先ほどまで騎士たちを襲っていた魔物たちが逃げ出した理由が、これだ。彼らは本能で理解していたのだ。ここが、『触れてはいけない領域』であると。
「……陣形を組め! 聖女殿、浄化を!」
ヴィンセントの号令で騎士たちが動こうとするが、一歩その領域に近づくだけで、目眩と極度の疲労が襲い、膝をついてしまう。
聖女もまた、白百合の杖を掲げて光の魔力を放った。だが――。
「だ、駄目です……! 浄化の対象が、定義できません……!」
彼女の浄化は、対象の“不浄”を洗い流すもの。だが、あの石が作り出しているのは不浄ではなく『ただの空間のバグ』だ。穢れていないものを、浄化することはできない。
人間の限界だった。
剣も、魔法も、神聖な祈りすらも通用しない。理解不能の災害を前に、エシャン王国の精鋭たちは完全に歩みを止められた。
ーーその時だった。
「……変な石ね」
ぽつり、と。
掠れた声と共に、日傘をさしたアシュリーが、極大の重圧が渦巻く領域の中へ、文字通り「ただの散歩」の足取りで踏み込んでいった。
「アシュリー殿ッ!?」
ヴィンセントの悲痛な叫びも届かない。
彼女は空間の歪みなど一切感じていないかのように、石の目の前まで歩み寄り、しゃがみ込んだ。
「よいしょ……重くはないわね」
人の頭ほどもあるその石を、細く白い腕で軽々と持ち上げたのだ。
その瞬間。
ピシャリ、と。
空間を支配していた重厚な圧迫感が、嘘のように霧散した。
アシュリーが魔法で石を封じ込めたわけではない。
彼女という『盤外の怪物』が直接触れたことで、石が放っていた異常なルールが、一時的に閉じただけだ。事態は根本的には何も解決していない。
だが、その“隙”を見逃す近衛騎士団ではなかった。
「今だ! 態勢を立て直せ! 後退し、距離を取れ!」
アロイスの指示で、疲弊した騎士たちが一斉に安全圏まで下がる。
その様子を、アシュリーは小首を傾げて見ていた。
「……これ、どうしたらいいのかしら」
その場を歪めるほどの厄災の石を、まるで邪魔な文鎮でも拾ったかのように抱えながら。
アシュリーは、心底どうでもよさそうに呟いた。
その光景を前に、三者三様の『認識のズレ』が極限に達していた。
騎士たちは、理解不能な恐怖に震えていた。
(空間を歪める石もヤバいが、それを素手で持ってるあの王女様はもっとヤバい……!)
聖女は、その場に崩れ落ちて祈りを捧げていた。
(やはり……! あの方こそ、世界の理そのもの! 存在が次元を超越しておられるのだわ……!)
そして、ヴィンセントは。
彼は剣を下ろし、ただじっと、石を抱える少女を見つめていた。
(……彼女は、戦って勝ったわけではない。ただ、ルールそのものを書き換えただけだ)
あれは、人間の枠に収まる存在ではない。制御不能の災害そのものだ。
だが、彼の胸中に去来したのは、恐怖による拒絶ではなかった。
(……彼女を私から遠ざけ、距離を取ることなど、到底不可能だ)
彼女を”管理”しようとした己の驕りを、ヴィンセントは完全に捨て去った。
これほどの存在を前にして、できることは一つしかない。共に生きていくこと……すなわち”共存”だ。
(私はエシャンの王として……いや、一人の男として。あの存在の隣に、立ち続けなければならない)
過剰防衛という名の本能は、いつしか”彼女を手放したくない”という、狂おしいほどの執着へと変質し、王の心を完全に支配していた。
一方、その頃。
討伐隊の騒ぎから遠く離れた、森の木々のさらに上。
音もなく枝に止まった一羽の漆黒の烏が、その赤い眼球で、アシュリーが手にした『石』をじっと見つめていた。
烏の視界を共有している者が、遥か遠方の暗闇の中で、微かに唇を歪める。
「……あれが、“例のもの”か」
闇の中で蠢く声には、確かな歓喜が混じっていた。
「王宮の堅牢な結界の中にいるはずだったあれが……まさか、外に出されるとはな」
彼らの狙いは、国でも、王の首でもない。
アシュリー・ド・メネス。
彼女自身が、世界を揺るがす巨大な陰謀の“標的”として、正式にロックオンされた瞬間であった。




