「本能と理性の不可逆」
鬱蒼と生い茂る木々が、昼間であっても陽光を分厚く遮る北部の辺境。
被害を受けた村を背に、巨大な魔の森が口を開けるその境界線に、エシャン王国の討伐隊が到着した。
装甲馬車の扉が開き、アシュリーがゆっくりと降り立つ。
ひんやりとした湿った空気と、どこまでも深い木陰。
「……ここ、とてもいい場所ね」
アシュリーは、心底満足そうに呟いた。光も音も少ないこの森は、彼女にとって王宮の豪華な離れよりも遥かに居心地が良い。
「陛下、村の負傷者は後方へ! 騎士団は森の入り口に防衛線を構築します!」
「よし。聖女殿は負傷者の治癒と、前線の浄化支援を頼む」
ヴィンセントは完全に”王”の顔で指揮を執り始めた。
緊迫した空気が張り詰める中、ただ一人、アシュリーだけが日傘を畳み、ふらりと森の奥へと歩き出した。
「……あら。王宮よりずっと静かだわ。少し、散歩でもしようかしら」
「ま、待てアシュリー殿!? そっちは危険だ!」
ヴィンセントの制止も虚しく、マイペースな彼女はサリーとケリーを引き連れて、暗い森の中へずんずんと進んでいく。
その直後。森の奥から、凶暴な咆哮と共に無数の魔物の群れが押し寄せてきた。
「構えろ!」
騎士団が迎撃に出る。局地的な戦闘が始まり、剣戟と魔物の叫び声が森に響き渡った。辺境の魔物は凶暴で、精鋭である近衛騎士たちもやや苦戦を強いられる。
だが、その激戦の最中、誰もが「ある違和感」に気づき始めた。
「……おい、なんだあれ」
一人の騎士が、信じられないものを見るように声を漏らした。
血に飢えた魔物たちが、散歩中のアシュリーへ向かって突進していく。しかし、彼女を中心とした『一定の距離』に踏み入ろうとした瞬間――魔物たちの足が、ピタリと止まるのだ。
見えない壁があるわけではない。
魔物たちは何かに怯えるように方向を急転換し、まるで「そこには絶対に近づいてはいけない」と本能で理解しているかのように、大きく迂回して別の騎士へと向かっていく。
結果として、アシュリーが歩く周囲にだけ、ぽっかりと完璧な“移動式・安全地帯(領域)”が形成されていた。
戦闘は、奇妙な形で成立し始めた。
騎士団は「あの王女様の近くにいれば安全だぞ!」と気づき、彼女の散歩コースを取り囲むように立ち回り始める。
聖女に至っては、その安全地帯のすぐ側を神聖なパレードでも先導するように歩きながら、近づく魔物を「お静かに。アシュリー様がご満足なさっていますので」と一方的に浄化していた。
(……これは、一体)
前線で剣を振るいながら、ヴィンセントは戦慄していた。
魔物は、アシュリーを明確に『避けて』いる。野生の獣が、絶対に敵わない上位の捕食者を前にした時のような、根源的な恐怖。
(アシュリー殿。貴殿は……何者なんだ。やはり、貴殿は危険だ)
有能な王の理性が、激しく警鐘を鳴らす。
同時に、ヴィンセントの中で一つの「仮説」が組み上がった。
(我々が王宮で、彼女に対して行っていたあの過剰なまでの保護行動。食事の温度、静寂、光の遮断……。あれは外交への配慮などではない。強大すぎる“脅威”を前にした人間が、無意識に機嫌を取ろうとする『防衛本能』だったのではないか!?)
すべてが腑に落ちた。自分が彼女の世話を焼いてしまうのも、これは、恋などという甘いものではない。生存本能が「この危険人物から目を逸らすな」と命じているのだ。
(ならば、決断しなければならない。私はエシャンの王だ。これ以上、あの存在に心を絡め取られてはならない)
ヴィンセントは固い決意と共に、側近たちへ告げた。
「アロイス、マシュー! 彼女の護衛は任せる。私は前線で指揮に集中する」
「……はっ」
王の悲壮な決意を見送り、側近二人はアシュリーの背後へ回る。
――そして。
「……マシュー」
前線にいるはずの王が、なぜかアシュリーの真横を並んで歩いていた。
「……はい、陛下。前線はいかがなさいましたか」
「森の土は湿っていて滑りやすい。彼女が転んでは大変だろう……これは護衛の最適化だ。合理的判断だ」
「アシュリー殿、足元に木の根があるぞ。気をつけて歩け。……疲れたらすぐに言えよ」
マシューとアロイスは、無言で顔を見合わせた。
(無理でしたね)
(ええ。三十秒です)
側近たちは完全に察していた。防衛本能だの生存本能だの、もっともらしい理屈をこね回して逃げようとしているが、結局のところ、王はもう彼女を放っておけないのだ。
一方、当のアシュリーは。
「王宮よりずっと静か……ここ、住めそうね」
魔物が自分を避けて遠くで戦ってくれるおかげで、ただの涼しい森林浴を満喫していた。隣でヴィンセントが過保護に足元を注意してくるのも、少しうるさいが、まあ悪くはない。
(……危険だ。間違いなく危険だ。だが――)
ヴィンセントは、少しだけ機嫌の良さそうな彼女の横顔から、どうしても目を逸らすことができなかった。
(距離を取ることなど、私にはもう不可能なのだな)
彼の中で、王としての理性と、男としての抗いがたい執着が、完全に不可逆の地点を越えた瞬間だった。
だが、その奇妙に平和な散歩の空気を切り裂くように。
森の最深部から、これまでとは比較にならない、異様で粘り気のある重い気配が膨れ上がった。
ピタリ、と。
生き残っていた下級の魔物たちが一斉に動きを止め、怯えたように散り散りになって逃げ去っていく。
木々がざわめき、鳥たちが空を黒く染めるほど一斉に飛び立った。
ヴィンセントはアシュリーの前に立ち塞がり、研ぎ澄まされた剣士の顔に戻る。
「……本命は、さらに奥か」
風が、止んだ。
森の音が、不自然なほど消えた。




