「過保護という名の防衛本能」
エシャン王宮において、ある”異常事態”が日常と化していた。
それは、若く有能な王ヴィンセントと、その優秀な側近たちが、一人の異国の王女に対して『度を越した保護行動』を取り続けているという事実である。
「マシュー。東の離れの室温はどうなっている」
執務室にて、ヴィンセントは眉間に深い皺を刻んで問い詰めた。
「魔導具は一切使用せず、薪の暖炉のみで外気との差を最小限に抑えております。本日のスープも、温度・塩分ともに三度の調整を済ませました」
「よし。完璧だ」
ヴィンセントは真剣な顔で深く頷き、次にデリクを睨みつける。
「廊下の導線は」
「西棟から東の離れに至るすべての経路に、三重の絨毯を敷設済みです。足音は完全に遮断されております。加えて、窓の隙間風と光を殺すため、遮光布もさらに強化いたしました」
「ご苦労。手抜かりはないな」
――完全に、王がやることではない。
遠巻きに作業を見ていた侍女たちが、ひそひそと囁き合う。
「……あれ、完全に病弱な妹を甘やかすお兄様よね」
「いえ、あれはもう“過保護なお父様”の域では……?」
だが、当の本人たちには、そのツッコミは一切届いていなかった。
東の離れ。
魔導具の光をすべて排した完全な闇の中、アシュリーはふかふかのソファに深く沈み込んでいた。
「……アシュリー殿。食事だ」
王であるヴィンセントが、自ら銀のトレイを持ち込んでくる。
かつて彼女を“監視対象”として値踏みしていた冷徹な男の姿はどこへやら。今の彼は完全に”偏食な妹に、なんとか一口でも食べさせようと奮闘する兄”であった。
「……少しだけなら」
「そうか。よし、いいぞ。……ほら、もう一口だけ頑張れるか」
「……無理」
「そうか、無理か……」
アシュリーが一言拒絶するだけで、ヴィンセントは心底残念そうに、だが真剣に頷いた。
「デリク。明日はさらに胃への負担を減らせ。味をもっと薄くするんだ」
「承知いたしました」
――完全に親である。
背後で控えていたアロイスが、耐えきれずにぼそりと呟いた。
「……陛下。これ、もう外交の範疇を超えて、ただの育児では?」
「違う」
ヴィンセントは振り返りもせず、即答した。
「これは合理的判断だ。彼女が倒れれば国際問題になる。すべては外交のための最適化に過ぎん」
(……なぜ私は、ここまで彼女の体調を気にしている?)
ヴィンセントの思考が一瞬だけ揺らぐ。
(いや、違う。国を守るために必要だからやっているだけだ。そうでなければ説明がつかない)
自らにそう言い聞かせた直後。ソファの上のアシュリーが、小さな口でスープを飲み込み、ぽつりとこぼした。
「……これ、温かいわね」
「……そうか」
ヴィンセントの目が、自分でも気づかないほど甘く、優しく緩んだ。
(((いや、それ『恋』ですから!!)))
背後の側近たちは全員、心の中で見事なまでにシンクロしたツッコミを入れた。
しかし、その“平和な異常”は、唐突に破られることとなる。
「陛下! 北部辺境にて、魔物の異常繁殖が発生いたしました!」
血相を変えた伝令が飛び込んできた瞬間、空気が一変した。
ヴィンセントの表情から一切の甘さが消え去り、冷徹な王の顔が完全に戻る。
「被害は」
「既に村が一つ、壊滅寸前です」
「……分かった。私が出る」
即断だった。
「近衛騎士団を編成しろ。視察と討伐を同時に行う。ただちに準備を――」
「陛下。この討伐、私も同行いたしますわ」
凛とした声と共に現れたのは、教会の聖女だった。
「危険だぞ、聖女殿」
「問題ありません。穢れを祓うのこそ、私の役目ですから」
聖女は、白百合のような柔らかな微笑みを浮かべている。
――だが、内心は全く別だった。
(あの方をこの不浄な後宮に置き去りにし、私だけが王都を離れるなどあり得ません! あの方の静寂は、私が絶対にお守りしなければ……!)
――完全に、手遅れな狂信者である。
ヴィンセントは一瞬だけ沈黙し、思考を巡らせた。
(……聖女を連れていくしかないか。ならば――)
彼の脳裏に、もう一つの考えが浮かぶ。
再び、東の離れ。
「北部の視察に、同行しないか」
「嫌よ。面倒だわ」
アシュリーの即答に、ヴィンセントは怯まず言葉を継ぐ。
「環境の確認だ。王宮よりも、さらに療養地として適している場所がある可能性もある」
「興味ないわ」
まるで動かない。ヴィンセントは一瞬考え――彼女の「嗜好」を突いた。
「……夜の森は、静かだぞ」
ぴくり、と。アシュリーの指先が反応する。
「王都の夜は光が漏れるからな。王都よりもずっと暗い。光も、音も、ほとんどない完全な闇だ」
沈黙。
アシュリーはゆっくりと顔を上げた。
「……本当に?」
「ああ」
「……行くわ」
即決だった。
その瞬間――。
(よし!)
(通った!)
(勝った……!)
ヴィンセントと側近たちの心が、歓喜で一つになった。
一方で、背後に控える聖女もまた、(お守りできる……!)と静かな法悦に打ち震えていた。
しかし、この異例の決定は、後宮を大きく揺るがした。
「あの病弱な王女を、外に出すですって!?」
自室で報告を受けたダイアナは、憎々しげに顔を歪めた。
王宮の奥深く、王直々の過保護な結界(東の離れ)に引きこもられては、もはや手が出せなかった。だが、外に出るのなら話は別だ。
「……好都合ね」
ダイアナは静かに笑う。
「外なら、魔物に襲われるなどの“悲しい事故”も起きるのだから」
主の笑みを受け、後宮の影たちが不穏に動き出す。
出発の朝。
王城の正門前には、重厚な装甲馬車と近衛騎士団が整列していた。
馬上から隊列全体を見下ろすヴィンセント。
(この機会に、彼女の本当の底を測る)
それは王としてではなく、一人の男としての、静かで熱い執着。
馬車の傍らで祈りを捧げる聖女。
(あの方を、すべての穢れからお守りする)
すべてを賭けた、純度百パーセントの狂信。
そして、分厚い遮光カーテンで閉ざされた馬車の中。
「……暗いわね」
アシュリーは、ふかふかのクッションに包まれながら、満足そうに呟いた。
(外の方が、誰にも邪魔されずに静かに寝られるかもしれないわね)
完全に、ピクニック気分であった。
三者三様。
目的は全く違い、認識も致命的にズレたまま。
それでも隊列は進み出す。王宮の門を越え、未知なる外の世界へ。
その背後で――。
静かに、そして確実に、“何か”が動き始めていた。




