無敵の強欲なダークヒーローの誕生
夜八時。人気のない公園に、場違いな言い争いの声が響いていた。
「……おい。それ、戻れるのか?」
里帆が、ゴミを見るような、あるいは未知の生物を観察するような目で俺を射抜く。
「戻る数式? ……そんなもん、まだ作ってねーよ」
「はぁ!?」
里帆の怒鳴り声が夜の静寂を切り裂く。
「じゃあどうすんのよ! ずっとそのままなの!?」
「まあ、それはおいおい考えるとしてだな……。見てろよ、数分経つだけで身体に馴染んでくるのが分かるんだ」
俺は里帆の目の前に右手を差し出した。
「ほら。さっきの凹みも無くなった。動きもスムーズだ」
月明かりの下で見れば、そこにあるのは何の変哲もない二十歳の青年の手だ。
肌艶もいいし、透明どころかむしろ健康的ですらある。
だが、俺の脳内にある数式が正しければ、今の俺は「ただの人間」ではない。
質量も色も変化はない。
だが、俺を構成する細胞は極小の粒子レベルでバラバラに独立し、互いに一定の距離を保ちながら「人の形」を維持している。
強い衝撃を受ければ粒子が弾けるが、磁石のように即座に結合する――つまり、痛みもなければ欠損もしない。
言うなれば、この世で最も精密な「液体」に近い身体だ。
「このまま当分いくわ。どうせ誰にもバレねーだろ」
俺が満面の笑みで宣言すると、里帆は腕を組んで深い溜息をついた。
「……あんたさ。どうでもいいけど、透明人間になって何するつもりだったのよ」
「そりゃあ、お前……」
俺は、我ながら気色の悪い笑みを浮かべて答えた。
「女子風呂を覗くだろ? で、飽きたら別の女子風呂を覗く。これ一択だわ」
沈黙が流れた。
里帆は一言も発さず、踵を返して夜の闇へと消えていった。
その夜。
前日の夜に数式を練り上げるため完徹していた俺は、覚醒した能力への興奮で眠れないかと思いきや、泥のようにあっさりと眠りについた。
翌朝、早くに目が覚めた俺は、ベッドの上で寝転んだまま両手を掲げ、手のひらを開閉させた。
(この能力、どうすっかな……)
昨晩シャワーを浴びても変化なし。
一日経っても異常なし。
試しに指で思い切り腕をつねってみるが、やはり痛みはない。
今の俺は、指を離せば凹んだ箇所もすぐに戻るようになっていた。
(多分、瞬間的な衝撃を与えたら千切れるんだろうな……。で、すぐ戻る。どこまでの衝撃に耐えられるか、テストが必要だな)
大学への道すがら、俺は下らない妄想を繰り広げていた。
漫画なら、ここで飛んできた野球ボールが頭を貫通して、それを見た選手が目をこする、なんてシーンがあるはずだ。
あるいは、悪い奴らに絡まれている美少女を助けて、そこから恋が始まる、とか。
だが現実は非情だ。そんな都合よくボールは飛んでこないし、大学キャンパスは平和そのもの。
今この国で「粒子人間」が誕生している確率の方が、美少女を救うイベントに遭遇する確率より高いだろう。
「待てよ……」
ふと、名案が浮かんだ。
(強いところを見せれば、女の子の方から寄ってくるんじゃね?)
俺は辺りをキョロキョロと見回した。喧嘩の火種を探したが、今の大学には三島由紀夫のように気合の入った奴は一人もいない。
ヒョロヒョロの爽やか男子か、清潔感のあるスポーツマンばかりだ。
(俺が憧れた、あの任侠映画みたいな「漢」はいねーのかよ……)
教室に入ると、いつもの「記号」たちがいた。
「最近気づいたんだけどさ」
賢治が、相変わらず落ち着きのない口調で切り出した。
「麻雀やってる大学生、俺らだけじゃね? 今時みんな、バイトで小銭稼ぐのに必死だろ。……だからさ、俺もバイト増やそうと思って。当分、麻雀はパスだわ」
「え、まじで? ほな俺らもバイトする〜?」
脩が俺の方を見た。
「稼いでさ、十泊くらいで旅行行こうぜ」
「いーねー」
適当に相槌を打ちながら、俺は自分の無敵の身体をどうキャッシュに換えるか考えていた。
モテたい。金も欲しい。だが、真っ当にバイトをするのは面倒だし、かといって「悪いこと」で稼ぐのも寝覚めが悪い。
そこで、悪魔的な閃きが脳内を駆け抜けた。
(……ヤクザの金なら、盗んでもいいんじゃね?)
どうせ人様から巻き上げた金だ。返り討ちに遭って拳銃で頭を撃ち抜かれようが、今の俺なら即座に再生できる。
悪い奴から金を奪い、いい思いをする。これぞ完全犯罪、かつヒーロー気取りのマネーロンダリングだ。
(問題は……本物のヤクザがどこにいるかだな。最近のタトゥーはファッションか本職か見分けがつかねーし……)
授業が終わると、里帆が一瞬こちらを見たが、すぐに目を逸らして歩き出した。
昨日の「女子風呂」発言をまだ引きずっているらしい。半分は冗談だったんだが、まあ半分は本気だったから否定もしづらい。
「おーい、里帆! 待てよ」
呼びかけても歩みを止めない背中に、俺は駆け寄った。
「嘘だって、冗談だよ。そんな怒んなよ」
「別に怒ってない。……身体、どうなのよ」
「絶好調だ。俺さ、この身体を使って悪い奴をやっつけようと思ってさ」
心の中で(そいつらから金を盗むんだけどな)と付け加える。
里帆はまた、呆れたような、どこか心配そうな顔をした。
「あんたがそんなヒーローみたいなこと、するわけないでしょ。いいから、ちゃんと戻れる数式を考えなさいよ」
「はいはい。まあ見とけって。今度、美味いもん奢ってやるからさ」
もちろん、盗んだ金で、な。
俺は心の中でニヤリと笑い、ヤクザの事務所を探すべく、街へと繰り出した。
お読みいただきありがとうございます。
1部は全19話となります。もう書き終わりましたので、これから毎日投稿したいと思います。
2部も書いていきたいと思ってますのでよろしくお願いします




