24.城下町編 待ち合わせ
セフィライズとの食事の約束は、一度私服に着替えてから待ち合わせることになった。スノウは城の前にかかる橋の真ん中で、彼が来るのを静かに待っていた。
城の中で暮らしていると、休みの日まで制服で過ごしてしまう。いざ出かける服となると、何ひとつ持っていないことに、今日になってようやく気づいた。
仕方なく、支給された制服のシャツを二枚重ね、その上から同じく支給品のコートを羽織る。ズボンももちろん制服のまま。給金はもらっているのに、服を買いに行こうと思ったことすらなかった。
スノウは灰色の空を見上げる。ヨトゥンの寒冷期も、そろそろ終わりが見えてきた。厳しさの隙間に、少しずつ穏やかな日が混じりはじめている。大粒の雪が一粒ずつ、真上からそっと降りてきていた。触れれば溶けてしまいそうなほど静かで、やわらかな落ち方だった。
「すまない、待たせて」
雪道を踏みしめて近づいてくるセフィライズは、灰色のマフラーに同色のパンツ、黒いチェスターコートを身にまとっていた。膝下まである焦茶のブーツ、耳当て付きの黒い帽子に髪をすべて隠している。
その整った私服姿を目にした瞬間、スノウは顔が熱くなった。自分は、配給品を重ねただけ。持っていないのだから仕方がない、そう思っても、恥ずかしさはどうしても消えない。
「寒くないのか」
「えっと……寒さに、強いんです!」
持っていないので――なんて、恥ずかしくて言えるはずがなかった。
セフィライズは何も言わず、ゆっくりと自分のマフラーを外した。その動きはためらいがなく、自然だった。広げた布を、スノウの首元へそっと回そうとする。
「セフィライズさん、大丈夫です、本当に、あの……!」
「いや、見ているこっちが寒くなる」
その一言に、さらに恥ずかしくなった。このコートの下がシャツ二枚だけだなんて、知られたら驚かれるに決まっている。けれど、巻かれたマフラーに顔を埋めた瞬間、そんな思いはすべて溶けていった。
とても、柔らかくて、暖かい。まるで彼の手がそっと触れているような気がして、スノウはきゅっと目をつむった。
「行こうか」
歩き出したセフィライズの、ほんの少し後ろをスノウはついていった。ぎこちない距離があく。その距離が、少しだけ寂しかった。
そっと手を伸ばし、彼のコートの裾を指先でつまんだ。その小さな気配に気づいたセフィライズが振り返り、足を止めた。スノウは彼の隣に並び、ぎこちなく笑みを向ける。彼もまた、雪の光を宿したような優しい目でスノウを見返した。
今日は日の当たる場所なだけあって、多くの人が穏やかな休みを過ごしているようだ。
アリスアイレス城からまっすぐ伸びる大道路の先には、大聖堂がそびえている。その中は、讃美歌に包まれながら礼拝を捧げる人々であふれていた。その光景を眺めながら歩く。
その大聖堂の入り口でスノウは立ち止まった。この世界で最も信仰されているノルド教に、敬意を表し祈りを捧げる。それを、セフィライズはただ黙って見つめていた。
自分が信じる宗教ではない。それでも、多くの人がそこに救いを見いだし、癒やしを得ているのなら、どうか、みんなが幸せでありますように。
「セフィライズさんは、礼拝に行かれたりするのですか?」
祈りを終えたスノウが顔を上げると、彼は少しだけ視線をそらした。
「いや……神はもう、いないと思ってる」
意外な回答だった。白き大地の民は、ノルド教の聖典にも登場するほどの古の民族である。以前、エルジリア将軍が発した「神話にもっとも近い民族」は、まさにその通りだからだ。
「……仕事で、参加する事はままある」
「そうなんですね」
行こう、ときびすを返して彼は進む。スノウはその背中を見つめ、胸の奥がひやりとした。
スノウが案内した店は、実のところ一度も訪れたことのない場所だった。本当を言えば、城下町のことなどほとんど知らない。何せ、今日が初めての城下町歩きなのだ。
セフィライズに伝えた店の特徴に、彼は心当たりがあったらしい。結局のところ、道案内をしてくれたのは彼のほうだった。
たどり着いたのは、昼は食事、夜は酒を出すという大きな料理店。天井が高く、扉をくぐると大きなバーカウンターが視界に広がった。スノウはあっちを見て、こっちを見て、まるで初めて見る世界に迷い込んだ子どものように目を輝かせながら進む。案内された席に腰を下ろす。
「もしかして、来たことありましたか?」
「兄さんと、夜に何回かは」
セフィライズはそう言って、脱いだコートを近くの椅子にかけた。その下から現れたのは、紺色の暖かそうなカーディガンと白い襟付きのシャツ。さらにその下には黒いタートルが覗いていて、彼の服装はどこか冬の静けさをまとっていた。
「脱がないのか」
その問いは、責めるでもなく、ただ純粋な疑問のようだった。
彼女は、慌てていた。室内ではコートを脱ぐ、そんな当たり前のことをすっかり忘れていたのだ。けれど、このコートを脱いでしまえば、配給された制服を二枚重ねただけという、あまりにも心もとない格好が露わになってしまう。とてつもなく恥ずかしい。とはいえ、室内で着たままというのも不自然だ。まして、これから食事をするというのに。
「え、ええっと……セフィライズさんは、帽子は脱がないんですか?」
その問いに、今度はセフィライズがわずかに言葉を失った。帽子を脱げば、隠していた髪が露わになる。
「……大丈夫、ですよ。気になりますか?」
「いや……」
その返事は短いのに、どこかためらいがあった。夜に兄と来たときは、いつも髪を出していた。それは相手が兄だからであって、今日、隣にいるのはスノウだ。
彼女に迷惑をかけるのではないか。そんな思いが胸をかすめる。けれど、帽子を被ったままというのも、やはり不自然だ。
セフィライズは静かに息を整え、帽子へ手を伸ばした。脱いだ瞬間、中に収めていた髪がするりとこぼれ落ちる。光を受けて揺れたその色は、店内の灯りの中でひときわ静かに輝いていた。
「セフィライズさん。……笑いませんか?」
恥ずかしさで胸がいっぱいになりながらも、スノウはまっすぐ彼を見た。室内でコートを脱ぐという当たり前のことを忘れていた自分が情けなくて。ゆっくりとコートを脱ぐと、配給された制服が姿を現す。
「もしかして、制服の……」
「ご、ごめんなさい。わたし、あの……服を、買ったことがなくて……」
言葉にした瞬間、顔が真っ赤になった。この国に来て何ヶ月も経つのに、私服で外に出るなんて考えもしなかった。そんな自分が急に情けなく思えて仕方ない。
「それなら、ちゃんと制服を着てこればよかったのに。それは、いくらなんでも寒いだろ」
セフィライズはそう言って、カーディガンのボタンに手をかけた。脱いだそれをスノウの肩にかけようとする。
「だ、だめです! そんな……」
スノウは慌てて身を引いた。彼の服を借りるなんて申し訳なさすぎるし、何より、恥ずかしい。
「私は、この下にも着ているから。それだけは流石に寒い」
確かに、室内といえどスノウにとっては肌寒い。許されるならコートは着ていたいくらいだ。けれど、彼のカーディガンを受け取るのは違う、と必死に手を振って断った。
一瞬、セフィライズが伏し目になる。だが次の瞬間、彼は何か思いついたように薄く笑った。
「じゃあ、これは仕事だ」
その言い方は、まるで上官命令のよう。
「君はたまに押しが強い、たまには逆もいいんじゃないか」
椅子に座り、頬杖をついて笑うその表情は、旅の途中で何度か見せてくれた自然な笑顔だった。スノウはその雰囲気に、胸の奥がふっと落ち着くのを感じた。とても懐かしくて、とてもあたたかくて。名前のつかない気持ちが広がる。
受け取ったカーディガンは少し大きくて、袖を折り曲げて着ることになった。男性物のボタンが反対側についているのが、妙に新鮮で、それだけで胸がくすぐったくなる。




