23.城下町編 図書室
振り返ったセフィライズの表情は、深くかぶったフードの影に隠れてよく見えなかった。スノウは思わず、その布へそっと手を伸ばす。しかし彼は、わずかに身を引いて避けた。
「ごめんなさい、顔が……見えなかったので」
ただ、知りたかった。どんな表情をしているのか。スノウは胸の前でぎゅっと握りしめるように手を引き寄せた。
その仕草を見て、セフィライズは短い間を置き、ゆっくりとフードを下ろした。
雑に伸ばされた銀髪。光を吸い込むような、透明なガラスの瞳。変わらないはずなのに、どこか遠くに感じる。
「君は……」
言いかけて、彼は言葉を止めた。どう続ければいいのか、わからない。
自分のような者と、関わっていてもいいのか。白き大地の民。忌まれ、恐れられ、距離を置かれる存在。
スノウは、さっきの会話がきっと彼の耳に届いていたのだろうと考えていた。もし自分だったら、傷つくに違いない。考えるほどに胸が痛んで、けれどどうしたらいいのかはわからなかった。
だからせめて、彼が少しでも安心できるように。スノウはそっと、柔らかく微笑んだ。
「あの……セフィライズさん。おかえりなさい」
その一言は、真冬の部屋にそっと灯る小さな火のようだった。
セフィライズは目を丸くした。驚きがそのまま瞳に映り、すぐに伏せられた視線が足元へ落ちる。
ほんの一瞬だけ、彼の目が物悲しげに揺れた。けれど次の瞬間、迷いと困惑が入り混じったような表情でスノウを見上げる。ためらいがちに、けれど確かに、口元がやわらかく緩んだ。
「ただいま……」
その声は、彼にしては珍しく、どこか温度を帯びていた。
スノウは胸の奥がふわりとほどけるのを感じた。嬉しくて、自然と笑みがこぼれる。その笑顔に、彼の肩の力がほんの少しだけ抜けたように見えた。
セフィライズが向かった先は、城内の図書室だった。スノウはその入り口で、ふと立ち止まった彼の横顔を見つめる。伏し目がちな瞳。それはきっと、今は彼の、白き大地の民としてのすべてを曝け出しているから。
スノウは、背を押すべきか迷った。声をかければ、彼はきっと歩き出す。けれど、無理に押してしまえば、彼の心のどこかを傷つけてしまう気もした。迷いの中で、スノウはただ静かに見守る。
セフィライズは、自分で一歩を踏み出した。セフィライズが図書室に足を踏み入れた瞬間、静かな空間がわずかに騒めいた。
図書室の奥では、文官のツァーダが書物を広げ、何かを調べている。二人が近づいてくる気配に気づいたのか、ツァーダは慌てたように本を閉じ、棚へ戻し始めた。その動きは、どこか焦りを含んでいるようだった。視線が合う。ツァーダは苛立った様子で、セフィライズの前に立ちふさがった。
「貴様はたしか……魔術に詳しかったな」
ツァーダの声に、セフィライズは胸に手を当て、深く頭を下げる。「はい」と答える声は静かで、礼儀正しい。
「強力な浄化方法を知っているか」
唐突な問いに、セフィライズは一瞬だけ考えた。普段、嫌味以外でツァーダが話しかけてくる事は少ない。だからこそ、質問の意図がつかめなかった。
「早く答えろ!」
鋭い声に、セフィライズはわずかに肩を揺らし、それから静かに口を開いた。
「……術者のゆかりの地の水に、神話の時代からあるローズマリーの株から枝を採取し、浸します。それらを術の前に用いれば、魔術は格段に強力になり、浄化作用も……あると、言われています」
神話の時代から存在するとされるローズマリーの株。その枝は、現世と冥界の狭間に根を張るという。世界のどこかにあるとされる冥界への入口に手を伸ばすか、あるいはその入口を開けられる魔術師が必要となるため、入手は極めて困難だった。
禁忌、もしくはそれに準ずる魔術を行う際に用いられるそれは、凡人であっても浄化の力を得られると伝えられている。魔術に心得のないツァーダにとっては、良い方法ではないかと思ったのだ。
無論セフィライズが思う一番の方法は、スノウに治癒術を使ってもらう事だ。だが、それは言えなかった。というのも、カイウス王子のフレスヴェルグを癒したのは浄化ではなく、治癒の力だと、その場にいた者は皆そう理解していたからだ。ただ、セフィライズとシセルズだけが、彼女に浄化の力があると思っている。これを、スノウ本人にも知られていいものなのか、判断が付かなかった。
ツァーダは説明をすべて聞き終えると、深い絶望の表情を浮かべた。
「……貴様は、取ってこれるのか」
「手を伸ばすぐらいなら、開けられます。しかし、禁忌に触れる為、穢れを引き寄せる事になります」
セフィライズの淡々とした返答に、ツァーダはわずかに顔を引きつらせた。そして、ちらりと隣に立つスノウへ視線を向ける。スノウなら浄化の魔術が使える。それはツァーダもよく知っている。だからこそ、何か言いたげに口を開きかけた。だが、次の瞬間、彼はふんっと鼻を鳴らし、そのまま逃げるように図書室を出ていってしまう。
セフィライズは顔を上げ、すでに姿の消えたツァーダの方を振り返った。スノウへと会話が向かなかったことに、安堵した。
「兄さんから年齢を知らないって聞いた。スノウが住んでいた地域は、確か月の重なりを暦にしていたはず……」
スノウは驚いて見せた。セフィライズがこんなふうに詳しく尋ねてくるのは珍しい。促されるまま、彼女は素直に答えた。
セフィライズは紙に何かを書きつけながら、分厚い本をめくっていた。彼が持ち込んだのは、月の満ち欠けや軌道を記した天文の記録。古い紙の匂いと、静かな図書室の空気が混ざり合う。
「産まれた正確な日付はわからないと思う。何か特別な出来事が起きたとかそういう話は聞いてないか」
彼の声は淡々としているのに、どこか慎重だった。スノウは記憶をたどりながら、ゆっくりと答える。
「えっと、干ばつがあったと聞きました。水を用意するのが、大変だったって……」
スノウは目を閉じ、ゆっくりと昔のことを思い出す。あの頃の辛かった出来事は、今ではどこか少しぼやけて見える。とても、遠いところまできた。悲しいことも、苦しいことも、鮮明に覚えている。受け入れて、向き合って、心の中でそっと置き場所を決めたから。だから今は、あの頃の痛みに振り回されずにいるのかもしれない。
ふと、目の前で資料を読み込むセフィライズの横顔を見た。長く伸ばした銀髪が、めくる本の端に触れて揺れる。
彼がたまに見せる、物悲しそうな目。胸の奥に影を落とすような、あの辛そうな表情。
それはきっと、彼の中にある何かが、常に彼自身を責め続けているのだろう。向き合えず、背を向け続けてきたもの。スノウには計り知れないほど深く、重く、長い時間をかけて積もったもの。きっとずっとずっと、彼の心の奥で疼き続けている。
「……大体十八か十九……干ばつの記録から読めば、十八が妥当か」
セフィライズは紙に文字を書く手を止め、考えるようにしてそう答えた。
「ありがとうござます。あの……セフィライズさんは、おいくつなんですか?」
思いがけない質問だったのだろう。彼は驚いたように目を瞬かせた。年齢など、もう長く気にしたことがなかったのか、少し首を傾げて考え込む。
「……二十六、いや……二十七か」
スノウは、思っていたより歳上なことに驚いた。シセルズと同じく、若く見えるせいもあるのだろう。けれど、それ以上に、どうして彼は年齢を言い直したのか。その疑問が胸に引っかかった。
「お誕生日、近かったんですか?」
「……視察中に」
セフィライズは、戸惑いを隠せないまま答えた。
「セフィライズさん、お昼は食べましたか? よかったら、一緒にどうですか? お誕生日の、お祝いも兼ねて」
「誕生日って……そんな、祝うものでも……」
「いいえ、だめです。産まれたことを、喜ばないとだめです!」
スノウの言葉に、セフィライズは視線をそらした。その仕草に、スノウは胸の奥に痛みを感じる。
「大丈夫ですよ」
気づけば、口が勝手に動いていた。脈絡もなく、理由もなく、ただ彼に向けて放たれた言葉。スノウは慌てて口元を押さえる。
けれど、目の前のセフィライズは伏し目がちのまま、薄く笑っていた。
「城下町に、美味しいお店があるそうですよ。一緒に行きましょう」
スノウがそっと差し出した手。そっと寄り添うような優しさがあった。
「……わかった」
その返事を聞いた瞬間、スノウはふと、あの時のことを思い出した。コカリコの街の焚き火の前で、りんごを一つ渡したあの夜。押しに折れるように、仕方ない、とでも言いたげな表情で受け取った彼。
今も、同じ。強くて、毅然としていて、でもどこかで人と距離を置いて、本当はとても心細いのかもしれない。
そして、スノウは知っている。彼が本当は、とても思いやりのある人だということを。誰よりも静かに、誰よりも深く、自分以外の誰かを気遣ってしまう人だということを。




