22.城下町編 噂話
セフィライズがカイウス王子の視察に同行し、一織(十七日)が過ぎた。今日は、彼らが戻ってくる日だ。その間、新たな事件が起きる事はなく、王城には雪の息遣いだけが漂っていた。
朝になると、スノウは与えられた鍵を手に、彼の執務室へ向かう。窓の向こうには、珍しく雲の切れ間から青がのぞき、澄んだ光が室内の空気をやわらかく照らしていた。
スノウはそっと窓を開ける。冬の風が頬を撫で、ひやりとした感触が胸の奥まで染み込む。デスクの上の書類が風に煽られ、白い羽のように散っていく。スノウは慌てて窓を閉め、床に落ちた紙束を拾い集めた。
手にしたそれは、古い文献の資料だった。邪神ヨルムに関するものだ。セフィライズの筆跡で記された検証の痕跡、粗く描かれた壁画の図に矢印や書き込みがあった。彼がどれほど思考を巡らせたかを物語っている。見るつもりはなかった。けれど、ふと視線が止まる。大きく二重丸で囲まれた箇所。そこには、壁画の一点を指し示すように、こう記されていた。
《世界の中心》
世界樹の根に抱かれるように描かれた、ひとつの花、その箇所に。
スノウは最初《世界の中心》という名を知らなかった。しかしこのアリスアイレス城で学んだ知識によると、無限にマナを生み出すもの。手に入れた人は無限の幸福、知識が得られるもの。文献によっては永遠の命が得られるだとか、黄金を生み出す、だとか。まるでおとぎ話のような伝承が語られている、伝説上の存在。
スノウは指先で紙の端をそっと押さえながら、壁画の図を見つめた。セフィライズは何故これを、《世界の中心》だと思ったのだろう。その下には、小さく続きの文章があった。しかし、強い筆跡で荒々しくかき消されている。何かを迷っているような、そんな印象を受けた。
執務室を片付け終えると、アリスアイレズ城内にある室内庭園へと足を向けた。今日は、日の当たる場所と呼ばれる特別な日だ。一年は七枝と最後の一日に分かれ、一枝は五十二日でひと巡りする。一枝の中には織と呼ばれる区切りが三つあり、ひと織は十七日。三織を終えると、ちょうど五十一日が過ぎ、最後の一日が日の当たる場所である。
ノルド教福音派の多くの者は、この日になると神殿へ向かい、神に日々の感謝を捧げる。そのためか、いつもは人の気配が絶えない庭園も、今日は不思議なほど静かだった。
天井越しに差し込む柔らかな光が、葉の影をゆらりと揺らす。
「あら、スノウじゃない」
声をかけてきたのは、リリベル。そしてその隣には、彼女の友人のエリーがいた。二人は芝生の上に布を広げ、持ち寄った菓子を並べて、ちょうど楽しげに談笑しているところだった。
「こんにちは」
スノウは丁寧に頭を下げる。よかったら一緒にどう、とリリベルが手を振って誘ってくれたので、スノウは遠慮がちにその隣へ腰を下ろした。座った途端、リリベルが興味津々といった様子で、スノウの左腕に視線を向ける。
「ずっと無かったから、本当は嘘なのかと思ってた!」
リリベルがサンドイッチを頬張りながら、スノウの腕に新しくつけられた階級章を指でつつく。
「私は事務だから、ほら見て」
リリベルは自分の階級章を指で押さえて見せる。そこには、本の図が刻まれていた。表紙に描かれた印によって、どの分野の事務を担当しているかがわかるようだった。
「ってことは、スノウは秘書になるの?」
エリーが口いっぱいにお菓子を頬張りながら、もごもごとした声で言った。
「セフィライズ様の下に就いた人って、秒で辞めるんだよねー」
「そうなんですか?」
スノウは思わず聞き返してしまう。秘書かどうか、何を任されるのかも、まだ何ひとつ知らされていない。ただ階級章を与えられただけで、現状は掃除をしているだけだった。
「すごく恐ろしい人だって聞いたわ」
「近寄りがたいわよね、氷狼なんて呼ばれてるし」
二人の階級では、セフィライズと接する機会はほとんどない。だからこそ、彼について語られる噂は、どれも遠くから見た影のように曖昧で、そして誇張されているのかもしれない。近寄りがたく、冷たく、恐ろしい。ただ、これは城内で耳にする彼の印象の通りである。
スノウはそっと視線を落とす。本当は、そんなことないと知っている。彼が見せる静かな優しさも、ふとした瞬間の脆さも。けれど、この言葉はきっと彼女たちには届かない。スノウは微笑んだまま、胸の奥に言葉をしまった。
「それにあの色」
「確かに、人間じゃない感じがするわ」
二人はすっかり盛り上がっていて、スノウは少し置いていかれた気分になりながら、なんとなく視線を後ろへ向けた。
「あ、セフィライズさん……?」
「ぇえ!」
スノウの声に、リリベルとエリーは同時に跳ね上がった。さっきまで女子の世間話に花を咲かせていた二人は、ものすごい速さで立ち上がり、「し、失礼いたしますっ!」と揃った声で敬礼する。お互いに、聞かれていたのか、いないのか。視線を交わし合うその様子は、まるで小動物が突然の影に怯えるようだった。
スノウは、彼の微妙な雰囲気を見て思う。多分、聞こえていたんだろうな、と。けれど、なんて言えばいいのか。胸の奥で言葉がつまり、ただ静かに息を呑むしかなかった。
「戻られたんですね」
「日の当たる場所なのにすまない。少し、いいか」
用事がある、その事実だけで胸が少し温かくなる。スノウは二人に頭を下げ、セフィライズのもとへ歩き出した。
残されたリリベルとエリーは、心臓の音が聞こえそうなほど慌てていたが、何も言われなかったことに深く安堵していた。二人は再び芝生に腰を下ろし、しばらく無言のまま、互いの顔を見合わせるしかなかった。
「あの……」
今日の彼は、いつも以上に身を隠していた。マントも、深くかぶったフードも。髪も、瞳も、肌の色さえも、すべて覆い隠すように。
「どこに、行くんですか?」
少し早足で歩く彼の背中を、スノウは必死に追いかける。その問いかけに、セフィライズはふいに足を止めた。




