20.血の霊安室編 鍵
シセルズはセフィライズの肩に腕を回した。反対側では、スノウがそっと背へ手を添える。三人はゆっくりと執務室へ戻った。
赤いベルベッドに金糸の刺繍が施されたソファーへ腰を下ろさせる。セフィライズは力が抜けたように背もたれへ身を預けた。苦痛に歪む表情、うっすらと目を開けると、心配そうに見ているスノウと目が合った。その視線から逃れるように、彼は少し身を起こし、俯いたまま座り直す。
「……最悪の気分だ」
掠れた声だった。顔色はひどく悪い。
「大丈夫か?」
シセルズは立ち上がり、水差しの方へ向かった。ほどなくしてグラスを差し出す。セフィライズはそれを受け取り、一口だけ喉を潤した。そして長く息を吐く。
「大丈夫。ただ、本当に。まだ……聞こえる」
「死者の声、か……」
二人の会話を聞いて、スノウは一瞬止まった。その意味を理解するのに時間がかかる。先ほど行われた魔術は、スノウの理解を超えていた。死者の、死の間際の記憶を盗み見るものだ。その記憶が終わった後もなお、何かが残り続けるなど想像もしていなかった。
セフィライズは苦しげな声を漏らし、額に手を当てて目を閉じる。彼の中で、まだ鳴りやまないのだろう。ヨハンの後悔が。懺悔が。そして、サーシャへ向けた愛が。それは言葉として聞こえているのか、それとも感情そのものなのか。セフィライズ自身にも判別がつかないのかもしれない。ただ、その想いはあまりにも強かった。死の淵に立った人間が最後まで抱き続けた感情。それが今もなお、彼の胸を締め付けているのだ。
「あの時、白い……羽根のようなものが見えて。その……とても、綺麗だなと思ってしまいました」
天使のような、それ。それが、死者と関係があるのかと思った。
「あれは……」
シセルズは少し、間を開けた。言いたくないというより、説明するのに言葉を選んでいるような様子だった。
「無垢の枝。スノウちゃん、見た事なかったか? ごく稀に、死体に生えてる事があるんだけど」
スノウは小さく首を振った。ご遺体を見る経験は何度かあったが、そういったものがあるのは全く知らなかった。
「魂から溢れるマナは、本来なら体を動かすために使われる。けど、死んだあとに魂が残っていると、稀に芽が出るんだよ」
魂から放たれるマナは、生きているあいだは器を動かすために費やされる。だから通常なら、形を成すことなど決してない。それは、魂を苗床に芽吹く、その者だけの世界樹のようなものだからだ。
シセルズは苦々しい顔で思う。弟の背に生えた無垢の枝の形が、天使の羽根のよう。だなんて――皮肉だな、と……。
「禁忌が魂の活動を増やしたのか、それとも……」
セフィライズはそこで言葉を切った。スノウの顔をちらりと見て、何かを飲み込むように視線をそらす。そっと、心臓のあたりに手を添えた。
「どちらにせよ、魔術に使うよりも多くのマナが排出されたらしい」
「そうでもないと、生きた器には芽吹かないからな」
魂を酷使した代償が、どこかに影を落としてはいないか。セフィライズの体に、まだ見えない変化が潜んでいるのではないか。そんな不安がシセルズの脳裏をよぎった。
「セフィ、ちょっと我慢しろよ」
シセルズは身を乗り出し、セフィライズの額へ人差し指を当てた。
「我は魔術の神イシズの血を受け継ぐ者なり。その血に宿りし禁忌を呼び起こし……」
詠唱が始まる。シセルズの赤茶色だった髪が、ゆっくりと銀へと戻っていった。瞳もまた、銀に。しかし、印のあるその左目は黄昏の色だ。
「ダメだ、兄さん。しなくていい」
セフィライズは低く言った。苦しそうな顔のまま、それでも迷いなく額に触れる指を払いのける。途端に銀色は消えた。髪も瞳も赤茶色へと変化していく。
「むやみに使わないでほしい。禁忌の魔術は、使うたびに穢れが残る」
シセルズは返事をしなかった。ただ、自分の左目尻に刻まれた印へ触れる。
わかっていた。穢れが残る事なんて。だが、あんなにも魂から溢れるマナの輝きが強くなるとは、思ってもいなかった。無垢の枝が生きた状態で可視化される程に。
「俺が、やればよかった。ほんとに……」
後悔を呟く声。スノウは二人を見つめる。何かがあるのだろうと思った。けれど今は、聞いてはいけない気がした。胸の前で人差し指と中指を揃える。沈黙の誓い。つい先ほど知った仕草を、そっと真似た。それを見て、二人は少し笑った。
翌日、スノウが訓練場へ向かうと、そこに麻色の軍服を纏うセフィライズの姿があった。一瞬、足が止まる。昨日の光景がよぎったからだ。
「セフィライズさん!」
思わず手が伸びた。彼の手をとりそのひらに指を添える。しかし次の瞬間、セフィライズは小さく肩を揺らし、その手をそっと引いた。
「すみません、おはようございます」
「……おはよう」
短い挨拶だけ、言葉は続かなかった。気まずい沈黙。セフィライズは視線を外したまま、どこか困ったような顔をしている。それを見かねて、シセルズが背を軽く叩いた。セフィライズがわずかに振り返る。兄と弟の間に、言葉のないやり取りが一瞬だけ交わされた。そして、セフィライズは小さく息を吐く。
「執務室に、来てほしい」
「これからは一緒に働くんだと」
にやにやと笑うシセルズを、セフィライズは鋭く一睨みした。そのまま踵を返す。迷いのない背中。スノウは、その背についてこいという無言の指示を読み取り、シセルズへ軽く頭を下げてから後を追った。向かう先は、セフィライズの執務室。
扉を押し開けると、昨日と同じ光景が広がった。両側の壁は天井まで本棚に埋め尽くされ、前方には一段高くなった場所に重厚な机と椅子が据えられている。その背後の大きな窓からは、相変わらず白い世界が遠くまで続いていた。広い窓のせいか、室内にはわずかな冷気が漂っている。
スノウが肩をすくめ、身を抱くようにして寒さをこらえる。それに気づいたセフィライズは、入り口脇の壁に取り付けられた魔導人工物に触れた。瞬く間に、部屋の空気が柔らかく温まっていく。
「ありがとうございます」
スノウがほほ笑むと、セフィライズは彼女にしかわからない程小さく、顔を緩ませて頷いた。
彼は小上がりの階段を登り、机のところまで進むと引き出しを開けたりして、何かを探し始める。
「これは、鍵と、階級章」
本当は、これらを渡していないことに気づいていた。いや、気づいていながら、わざと渡さなかった。
城の中では、階級章がすべてを物語る。ひと目で、誰がどこに属し、どれほどの立場にあるのかがわかってしまう。もし彼女がそれを腕につければ、セフィライズの配属だと、誰の目にも明らかになる。
その瞬間、どんな視線が向けられるのか。奇妙なものを見るような目を向けられるのではないか。それが、ずっと胸の奥にひっかかっていた。
スノウはセフィライズから嬉しそうに鍵と階級章を受け取る。六花の紋章、狼のマークだ。スノウのものは六花の紋章のかわりに星が一つ、飾られていた。
「ありがとうございます」
スノウはふんわりとあたたかく微笑んだ。
「今日は、これからヨハンの件で、カイウス様のところに行く予定だから」
「はい、わかりました! 一緒に行きましょう」
君は待っていて、と続けるつもりだったが、先にスノウが嬉しそうに声を発する。少し息を含み、セフィライズは口元に指をあてた。それは、苦笑を隠した仕草だった。
執務室を出て、カイウスのところへ向かう。途中、前から文官のツァーダが歩いてきていた。
スッと、セフィライズが壁に沿って立ち止まった。静かに右手を胸に、左腕は後ろの腰へ当て、頭を下げる。すぐスノウも真似をして敬礼をし、彼の隣に並んだ。
「おはようございます」
深く頭を下げている彼の前で、ツァーダはそのでっぷりとした腹をセフィライズに向け立ち止まった。アリスアイレス王国の制服とは違う、いかにもといった高級な衣服。シルク生地に細かな金糸の刺繍がなされ、袖口にいたるまで手の込んだ仕事。胸元には厭らしいまでに輝く宝飾品が飾られている。
「ふん。こんなところを歩かせるな」
ツァーダはセフィライズの隣に立つスノウを人睨みして、吐き捨てるように言った。アリスアイレス王国の文官であるツァーダは、優秀なのだが他民族に理解がない。
高貴な生まれかどうか。それが彼の判断基準だ。スノウのような異国の少数民族。セフィライズのような見た目の者は、ツァーダから見れば低俗な生き物に見えるようだった。
「申し訳ありません。彼女は、私の下で働く事になりました」
胸に手を当て、頭を下げ続けたままセフィライズは言う。
どうしてこんなにも、威圧的で卑下するような声色をしているのだろうと、スノウは恐怖を感じた。気が付いたら両手を胸に当てて体をすくませている。それがツァーダには気に入らなかったようだ。
「何……こいつがか?」
「はい。カイウス様のご命令です」
「チッ。カイウス様は何故、こんな下賤の者を。貴様のような白亜にはちょうどいい、か」
ツァーダは白き大地の民を蔑む言葉である白亜に、嫌味をたっぷり込めて言う。
スノウはそれを聞きながら、セフィライズの事を心配した。しかし彼は顔を一切上げず、声色も変えないまま返事を続ける。
「私にはもったいないぐらい優秀です」
そのセフィライズの言葉が終わるよりも先に、ツァーダは離れていく。そして吐き捨てるように言った。
「その女に礼儀を教えておけ!」
ツァーダの姿が見えなくなるまで、セフィライズはずっと敬礼で頭を下げたままだった。顔を上げた彼は、隣で困惑した表情のスノウを見る。
「スノウ、君の階級は下から数えたほうが早い」
「あ、えっと。はい、すみません……」
セフィライズはおそらく、しっかり敬礼をしなさい。と、言いたいのだとスノウは思った。わからなかったわけではない。最初は胸に手をあて、頭を下げた。しかしすぐに顔を上げてしまったのだ。そしてツァーダの、汚いようなものでも見るかのような目と蔑みの声に、驚きと少しの恐怖を感じて固まってしまった。
「すまない」
セフィライズは差別的な扱いを受ける事には慣れている。しかし、己以外の誰か、に向けられるという事にはあまり慣れていなかった。何か、ツァーダに対して言える事があったのではないだろうかと思うと、自然と謝罪の言葉を口にしていた。
「え……?」
どうして謝られたのか、スノウには分からなかった。しかしセフィライズはすぐに前を向いて歩いて行ってしまう。その謝罪の意味を、聞けなかった。
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