19.血の霊安室編 禁忌
「兄さん」
セフィライズは静かに兄の隣へ立つ。他の者に背を向ける形で、口元を誰にも見られぬよう、聞き取れぬほどの声で問うた。
「まさか、採った?」
シセルズの肩が、ほんのわずかに揺れた。
「原因を調べるのに必要かもしれない。まだ亡くなってからそれほど時間も経ってなかったから」
シセルズはゆっくりとポケットから小瓶を取り出す。赤黒い液体が揺れた。それはヨハンの血液だった。セフィライズはそれを見てすべてを理解した。兄が、何をしようとしているのかを。
「俺がやる」
瓶を持つ兄の手に、セフィライズはそっと自分の手を重ねた。
「いや、これは禁忌だ。穢れる。だから――」
「だから、俺がやる。兄さんが使えば、たぶんその髪色と目の色は、元に戻る。その左目を見られるのは」
赤茶色に偽装されたシセルズの髪と瞳。その仮初めの色が解ければ現れるのは、白き大地の民の証――銀髪と銀の瞳。だが、シセルズは違う。左目尻に刻まれた文様。その上に宿るのは、銀ではなく黄金の輝き。
「それに、兄さんじゃたぶん、一発で倒れる」
少し場を和ませるように言うと、シセルズは苦笑した。
「否定できねぇな」
まだ二日酔いが抜けきっていない。胃の奥がむかつき、頭の芯も重かった。
それに、魔術も剣術も、弟にはかなわない。シセルズは左目尻の印に指を当て、息を呑む。そして、ゆっくりとセフィライズへ瓶を差し出した。
シセルズは水場から離れグラントの前、ヨハンの遺体の前に立った。
「どうした?」
グラントは、二人の兄弟の様子がおかしいことに気づいていた。その一言で、皆の視線がシセルズへ集まる。シセルズは静かに息を吐いた。
「今から、禁忌の魔術を使いたいと思う。だから、沈黙の誓いを、立ててほしい」
ここで見聞きしたことを、墓まで持っていく。無言の契約だった。シセルズは人差し指と中指を揃え、胸へ当てる。心臓に鍵をかけるように。そして、その指先をゆっくりと口元へ運んだ。唇に封をするように、横へと滑らせる。
「これから行うのは、ヨハンの最期の記憶を覗き見る魔術だ。冒涜と変わらない。でも、死の原因を知る手がかりがあるかもしれない」
セフィライズもまた、人差し指と中指を揃えた。胸から口元へ。沈黙の誓いを示す。
「白き大地の民は、そんなこともできるのか」
グラントが低く呟いた。
「サーシャさんにとっては、辛い内容かもしれない本当に、死の間際を、見ることになる」
シセルズが気遣うように、サーシャを見た。
「……本当に、見れるのですか」
かすれた声だった。
「ヨハンの……彼の最後が」
死者となったヨハンの寝かされた台座へと駆け寄り、その強く握りしめられたまま固まっている彼の右手に手を重ねる。涙を拭いて、彼女は再び顔を上げた。
「お願いします」
サーシャもまた沈黙の誓いを示す。それを見た残りの者達もみな誓いをたてた。スノウは戸惑いながら、彼らの動きを真似る。
セフィライズは一人ひとりの顔を見渡す。全員の視線が自分へ向いていることを確かめると、ゆっくりと身を屈めた。そして靴底に隠していた小さなナイフを抜き取る。すかな金属音が、妙に大きく響いた。
「スノウちゃん。俺が合図したらすぐに、治癒術を使ってほしい」
シセルズはそっとスノウの耳元で囁いた。
「かなり深く、やらないといけない」
その声に、スノウは思わず息を呑む。何をするつもりなのか。問いかけるより早く、セフィライズは動いた。左の手の甲から指先に向けてナイフを入れる。そして十字を切るように横にも。
傷口から溢れた血が、ぽたりと水面へ落ちた。静まり返った室内に、その音だけが小さく響く。セフィライズは表情を変えない。シセルズから受け取った小瓶の蓋を開けると、中の血液を口元へ運んだ。刹那、その端正な顔がわずかに歪む。小瓶に残った血を水場へと落とすと、ヨハンの血とセフィライズの血が混ざり合い、水面を薄く染めていった。
「我は魔術の神イシズの血を受け継ぐ者なり。その血に宿りし禁忌を呼び起こし、死者の記憶をここに現せ。今この時、我こそが世界の中心」
セフィライズから黎金の光が溢れた。次の瞬間、波動のような風が周囲へ広がる。スノウは思わずよろめき、顔の前に腕をかざした。今までで見たことがない程、彼の魔術は光り輝いていた。まるで身体の内側に閉じ込められていた何かが、光となって溢れ出しているようだった。激しい風で服が乱れ、誰もがそれに耐えるよう顔をしかめる。
その中心で、セフィライズはゆっくりと両腕を広げる。ほんのわずかに、足先が地を離れた。目を閉じたまま、口の端から一筋、赤が伝う。先ほど口に含んだヨハンの血だ。
スノウは見た。セフィライズの背から、白い枝が伸びるのを。一本。そして、もう一本。羽のように、雪よりも白く、静かに広がっていく。まるで天使のようだと、スノウは思った。その時だった。隣で、シセルズが小さく息を呑む音が聞こえる。見たくないものを見た、後悔にも似た色が、その表情に滲んでいる。左目尻の印に触れながら「俺がやればよかった」と、苦々しくつぶやくのをはっきりと聞いた。
水場の液体がゆっくりと宙へ浮かび上がる。糸に引かれるように集まり、やがて彼らの前で一枚の鏡のように広がった。揺れる水面、そこに何かが映り始めた。輪郭はぼやけている、それでも確かに人の手だった。
――どうしよう、胸が痛い
そこから声が聞こえた。サーシャが目を見開いて「ヨハン!」と叫ぶ。悲鳴にも似た声だった。鏡の中の手が動く。何かを探すように。
――本当に、俺でいいんだろうか
机の引き出しを掻き回している。
――俺なんかで……ごめん、これで最後にするから
引き出しから何かを取り出したらしい。水面が揺らぎ、何を掴んだのかまでは見えない。だが、それを口元へ運ぶ仕草だけははっきりとわかった。
その、直後だった。ヨハンの視界が前を向く。目の前に、黒い粒子をまき散らした、死者のように落ちくぼんだ顔をした、ヨハン本人が立っている。彼は驚いて絶叫し、どうしてどうしてと慌てて走り逃げようとした、その時だった。
耳を裂くような悲鳴が響いた。水面が激しく明滅する。映像が途切れ、繋がり、また途切れる。苦痛に満ちた叫び声が部屋を満たした。聞いているだけで胸が締め付けられる。サーシャは顔を覆い、イヤ……と呟きながら泣き始める。スノウもまた、あまりに苦しそうなその情景に耐えきれず、目を閉じた。
――ごめん、ごめん。ごめん……サーシャ、ごめん
ヨハンの声が小さくなり、そしてそこで途切れた。
魔術の光が消え、鏡のように楕円を描いていた水が、ばしゃりと音を立てて水場へ落ちた。セフィライズは倒れるように水場の縁に両手をつき、体を支えている。荒れる呼吸を整える声が漏れた。いつの間にか、背に広がっていた羽のような白い枝は消えている。
「スノウちゃん!」
背を押され、スノウは慌ててセフィライズのもとへ駆け寄った。左手の傷は思っていた以上に深く、息を呑む。裂けた傷口から血が溢れ、黒曜石の縁を伝って水場へ落ちていった。ぽたり、ぽたりと、赤が水面へと広がっていく。
「我ら、癒しの神エイルの眷属、一角獣に身を捧げし一族の末裔なり、この者の穢れを癒す力を我に。今この時、我こそが世界の中心なり!」
スノウは慌てて傷へ治癒術を施した。淡い光が傷口を包み込む。セフィライズは力が抜けたように、その場へ座り込んだ。肩が大きく上下している。荒い呼吸の合間に、わずかに顔を上げた。
「……ありがとう」
掠れた声だった。スノウは胸をなで下ろし、小さく微笑む。
「……よかったのに、そばに、いてくれるだけでよかったのに……!」
サーシャがヨハンの亡骸へ覆いかぶさる。堪えていたものが決壊したように、声を上げて泣いた。しばらくの間、霊安室にはその嗚咽だけが響く。
「あんなにもはっきりと、無垢の枝を見たのはこれが初めてだな」
グラントが驚いたような声を漏らした。再び、胸に人差し指と中指を揃えて当てる。沈黙の誓い。今ここで交わされた約束を、改めて確かめるように。
無垢の枝、セフィライズの背から生えた白い枝の事だ。しかし、それ以上は何も言わなかった。
「何かを、飲んでいたな」
顎に手をあて、思案するようにグラントが言う。サーシャの背を撫でていたエルジリアは、ヨハンの手に視線を向けた。
「この、右手に握られたもの、かもしれませんね」
ヨハンの右手は固く閉ざされたままだ。何を握っているのかはわからない。確かめるには、指を開かなければならないだろう。だが、泣き崩れる婚約者の前でそれをする者はいなかった。誰もが、あまりにも残酷だとわかっていたからだ。
「情報を整理しに戻ろう」
沈黙を破ったのはシセルズだった。彼は床に座り込んだままの弟へ視線を向ける。いまだ荒い息をしていた。
「セフィにも、休息がいる」




