18.血の霊安室編 黒変
案内するように歩き出したグラントの後を追おうと、セフィライズも静かに歩き出した。その背を、スノウもためらいがちに追いかける。気配でそれを察したのか、セフィライズはふと足を止め、振り返った。ついてくるな、そう告げようと、口を開きかけた、そのとき。
「ちょうどいい」
グラントの声が、間を断ち切るように響いた。
「ご遺体にはまだ指先が黒く残ってる。スノウさんなら」
「死体に、治癒術をかけたところで意味はない」
「いや、あの黒いのがもしとれたら、それはフレスヴェルグの病と関連があるという裏付けにもなる」
セフィライズは、シセルズとまったく同じことを口にしたグラントを、見上げるように鋭く睨んだ。
その視線の強さに、グラントは理由こそわからないものの、セフィライズがひどく不機嫌であることだけは察したようだった。
「あの……」
何の話をしているのか、スノウにはまったく理解できなかった。セフィライズの、彼女をこの問題に関わらせたくないという気配がありありと伝わる。だが、彼が口を開くより先に、グラントが説明を始めた。
アリスアイレス王国で続いている奇怪な死亡事件。
突然、心臓を押さえて発作を起こし、みるみるうちに手足の指先が黒く変色していく。激痛に喘ぎながら、一日と持たずに絶命してしまうという。その、指先の黒変が、カイウス王子の患ったフレスヴェルグの病と、症状がよく似ている。
カイウス王子を癒したスノウの魔術で、その指先の墨が消えてなくなれば、フレスヴェルグの病と関連がある何かではないかと、考えている事を告げる。
「頼めるか?」
もう、既に亡くなっている者に行う治癒術。それは、どれほど力を尽くしても誰ひとり救えないという、彼女の本来の力とは真逆の行為だった。そんな虚無だけが残る役目を、スノウに背負わせたくない。セフィライズは、その痛みから彼女を遠ざけたいと強く思っていた。
グラントの依頼に、スノウがどう答えるのか。セフィライズは胸の奥で身構える。だが、彼の予想とはまったく違っていた。スノウの瞳は強い輝きを宿していた。
「それで、少しでもお役に立てて、新しい犠牲者の方がでないのでしたら。わたしは全力で対応させて頂きます」
その瞳を見た瞬間、セフィライズは息をのんだ。驚きと同時に、自分の考えがいかに浅かったかを悟る。
スノウは弱い女性ではない。芯の通った輝きを、瞳に宿すことのできる女性だ。その澄んだ輝きを、彼は何度も見てきた。そして、そのたびに強く惹かれた事を、今また思い出す。
「じゃあ、いくか」
グラントに案内され、アリスアイレス城の地下深くにある霊安室へ向かった。石造りの回廊を進むにつれ、空気はひんやりと肌にまとわりつき、吐く息がわずかに白む。回廊の先に口を開ける螺旋階段は、まるで城の底へと吸い込むように暗がりへ沈んでいた。
一段降りるたび、石段が低く軋む音が響き、壁に埋め込まれた魔導人工物が淡い光を脈打つように放つ。その光は頼りなく、階段の影をより深く濃くしていた。下へ進むほど、しんしんと冷気が骨の奥へ染み込みる。
階段を降り切ると、静寂に包まれた広間が現れた。霊安室は天井が高く、空気は水底のように重く澄んでいる。部屋の中央には円形の水場があり、黒曜石の縁に囲まれた水面は、鏡のように一点の揺らぎも見せない。そこにはシセルズが静かに佇みながら水面を見ていた。セフィライズと同じく声をかけられたようだ。この状況に、酒の気配は引いたのかだいぶ顔色が良かったが、セフィライズと目が合うと苦い顔をしてみせる。
その水場を中心に、霊安の台座が円周状に並び、静かに死者を迎えるように佇んでいた。ひとつの台座に、男性の遺体が寝かされている。少し離れたところで、若い男性兵士が二人、すすり泣く女性とセフィライズの見覚えのあるもう一人の女性が立っている。
「エルジリア将軍」
アリスアイレス王国第一王子親衛隊六花所属。エルジリア・ブリュンヒルド。唯一の女性騎士であり、第一王子の所属ではあるが、リシテア姫の護衛部隊の指揮官でもある。王国でも古くから続く名門貴族の家系に生まれ、その地位は揺るぎない。栗色のロングヘアが背に流れ、鋭い眼光を宿した瞳が周囲を射抜く。太めの眉と彫りの深い顔立ちは、女性らしさよりも凛とした強さを際立たせていた。
「セフィライズ殿」
エルジリアは、隣で肩を震わせて泣き続ける女性の背を静かにさすりながら、セフィライズへと礼を示すように軽く会釈した。
「彼女はサーシャ。リシテア様の護衛部隊の一人で、私の部下です」
背をさすられていた女性は、涙で濡れたまつげを震わせながら息を整え、顔を上げた。セフィライズたちの姿を確認すると、必死に姿勢を正し、儀礼に則った敬礼を行う。
「今回の被害者は俺の所属、一般兵のヨハンだ」
グラントは遺体が横たわる台座のそばまで歩み寄り、静かにその顔を見下ろした。すぐそばに立つ若い兵士が二人、セフィライズたちに敬礼し、それぞれ名を名乗る。彼らはヨハンの同僚であり、突然の死をまだ受け止めきれない様子が、固く結ばれた唇と揃えた拳から伝わってきた。
「ヨハンは、サーシャの婚約者でした」
エルジリアは沈痛な面持ちで言葉を発した。彼女の隣ですすり泣いていたサーシャは、堰を切ったようにまた泣き出す。
スノウは胸元に手を当て、二人の関係を理解した瞬間、瞳に涙をためた。立ち止まっていたセフィライズの横を静かに通り過ぎ、戻らぬ人となったヨハンのそばへ歩み寄る。
台座に横たわるヨハンの右手は、何かを強く握りしめたまま固まっていた。その指先が、黒く変色している。それはスノウが見た、カイウス王子の指先とあまりにもよく似ていた。
スノウは治癒術を使っていいかどうか、確認するかのようにセフィライズの瞳を見る。彼は小さくうなずいて見せた。
「我ら、癒しの神エイルの眷属、一角獣に身を捧げし一族の末裔なり、この者の穢れを癒す力を我に。今この時、我こそが世界の中心なり」
スノウは冷たく硬直してしまっている強く握られた右手に優しく触れながら、治癒の魔術を唱えた。優しい光がヨハンを包む。彼の指先に現れていた黒変が、綺麗に消えた。しかし、彼のその胸に再び命の光が灯ることはなかった。
スノウは両手を胸の前で固く組み合わせ、彼女はただ静かに祈る。
「どうか、安らかに。ヨハンさんの魂が、大樹の根をめぐり、再びこの地で巡り会えますように」
その言葉が落ちた瞬間、セフィライズとシセルズ以外の者達がわずかに息を呑んだ。
彼らの信じるノルド教では、魂は輪廻せず、終焉を迎えた後、新たに生まれる世界へ行くと考えられているからだ。だが、誰も彼女を咎めなかった。
ただ、その祈りが別の信仰に根ざした切実な願いだと理解し、静かに目を伏せた。
シセルズは水場から離れ、ゆっくりとヨハンのそばに立った。指先の黒変が無くなっている事に、目を細める。何か、深く考えるかのように指を口元に当てた。
「彼の、死ぬ前の行動について少し、聞きたい」
セフィライズもシセルズの隣へ歩み寄り、横目で兄の表情を確かめながら、視線を前へ向けた。その先には、正面に立つグラント、さらにその向こうにエルジリアとサーシャ、そしてヨハンの同僚である二人の兵士が並んでいる。セフィライズは彼らを順に見渡し、静かに問いかけた。
「昨晩は、私達と酒を飲んでいました。特に悩んだ様子もなく、婚約したことと、サーシャを幸せにできるだろうかといった話を聞いたぐらいです」
「わたしは、昨日も今朝も、会っていません……どうして……」
サーシャは喉の震わせながら言った。
「最初に駆け付けたのは俺だ」
グラントは拳を固く握りしめた。兵舎で叫び声が上がったときのことを語り始める。駆けつけたときには、ヨハンはすでに激痛にのたうち、指先は黒く変色し始めていた。何をすることもできず、呼びかけにも応えない。やがて、急に静かになり、そのまま事切れてしまったのだと。ほんの数時間前の話だった。
その声には、救えなかった悔しさが滲んでいた。
「まだ、アリスアイレス王国内でも一部の者しか知らない。もし、これがフレスヴェルグの病とは違う、新たな奇病として多くの者に知れたら」
「あまり想像したくない未来だ」
フレスヴェルグの病は、いまだ原因が解明されていない。ただ、人から人へ感染するものではなく、発症例も極めて少ない。近年こそわずかに増加傾向にあるものの、それでも依然として稀な病であり、治療法も存在しない。そもそも罹患すること自体が珍しいのだ。
アリスアイレス王国でも、カイウス王子以外に罹患者は確認されていないほどである。
しかし、この突然死はヨハンを含めると二十一人目の犠牲者。それがたった一枝(五十二日)間の間に起きている。
セフィライズは考え込んでいたが、ふとヨハンの右手に目を落とした。手首に深い傷がある。その異様さに気づいた瞬間、隣に立つ兄の気配がわずかに揺らいだ。セフィライズが顔を上げると、隣の兄の表情が一瞬だけ強張ったように見える。
シセルズは黙って再び全員に背を向け、水場のそばへ歩み寄った。静かに、ゆっくりとポケットへ手を差し入れる。その仕草には、言葉にできない思いが沈んでいた。




