48.王国の第一王子編 迷い
話を聞き終えたスノウは、眠りについたままのカイウスを見た。
フレスヴェルグの病。彼女には聞いたこともない病気だ。何故患うかもわからない。傷や怪我を治すことは多々あれど、原因不明の奇病を治すなど、彼女にとっては初めての事。
「では、お願いします」
セフィライズはスノウの背を軽く押した後、離れて並ぶ側近達の列に混じった。
スノウは一人きり、視線を浴びせられる中でカイウスの手を握る。出来るかどうかはわからない。でも、やるしかないのだ。目を閉じ、彼女は詠唱の言葉を綴る。
「我ら、癒しの神エイルの眷属、一角獣に身を捧げし一族の末裔なり、魔術の神イシズに祈りを捧げ、この者の穢れを癒す力を我に。今この時、我こそが世界の中心なり」
声が震える。何かがとても怖い。
スノウはゆっくりと瞳を開ける。詠唱が終わったというのに、なにも変わった様子のないカイウスがベッドに横たわっていた。
「できぬではないか!」
最初に声を上げたのはツァーダだ。スノウはその場にいた全員が落胆しているのを感じた。しかしセフィライズだけが、目を細めて彼女を見ている。
「もう貴様に用事などないわ! この娘を下がらせろ!」
叫ぶツァーダの声に反応して、側近が何人かスノウに近づく。しかし、セフィライズがそれを止めた。
「マナが、集まっていませんでした」
「どういう事ですの?」
美しく緩やかに巻かれた赤毛を揺らし、カイウスのすぐそばに座っていた少女がセフィライズに問う。彼女はカイウスの妹のリシテアだった。
セフィライズは、リシテアに魔術の際に必要なマナの流れが一切なかったことを丁寧に説明し始める。
「では、マナを補えば可能ですのね。セフィライズ、あなたが手伝いなさい」
「……リシテア様、無礼を承知で申し上げます。我々は先ほど帰還しました。彼女も疲れている様子です。一晩、頂けませんでしょうか」
白き大地の民として、マナを補う事は問題ではない。彼の血液はすぐに大量のマナに変換される。しかし、セフィライズはスノウ一人で呪いを解かせたかった。それは、彼なりに考えがあったからだ。
しかしカイウスの容態は一刻を争う。その発言に反感を抱いたツァーダが声を荒げた。
「マナの補填ぐらいしか能のが無い分際で、何を偉そうな」
「黙りなさい!」
リシテアの一喝に、ツァーダが頭を下げならが後ろ下がる。
「わたくしとしたことが、あなたに失礼な事を言ったわね。お兄様が聞いたら、きっとわたくしをお叱りになります」
深呼吸をしたリシテアは、張り詰めた空気を和ませるように笑った。
「わたくしも早く兄様をお助けしたいのです。……ひと晩差し上げましょう。ですがセフィライズ……もし今晩、お兄様に何かあったら……わかっていますわね?」
「……かしこまりました。ありがとうございます」
セフィライズは頭を下げる。彼自身もまた、本当は一刻も早くカイウスを救いたかった。しかし、スノウの事を想えばこその提案。複雑な感情を抱え、眉間に皺を寄せる。ちらりと、スノウを見た。
彼女はリシテアとセフィライズのやりとりを見ることもなく、定まらない視線をベッドの端に落としたまま黙っている。
「レンブラント! スノウに今晩休む部屋と食事を用意しなさい」
リシテアの命令に即座に動いたレンブラントはスノウへと手を差し伸べた。
スノウはレンブラントに導かれるまま部屋を出る。すれ違いざまに見たセフィライズは無表情で、スノウと目を合わせる事すらしなかった。
温かくて豪華な食事。今まで泊まったこともないような部屋。スノウに与えられた婦人用の室内着は柔らかく肌触りが良い白いワンピースだった。
スノウは夜、今日という出来事をベッドに座りながら思い出す。
胸騒ぎがする。とても、何かがとても怖い。
ずっとそうだった。アリスアイレス王国についてからずっと。
スノウは胸に手を当てて、大きな窓から見える二つの月を眺めた。今日は雲一つない空。外の気温は恐ろしく低いのだろう、空気は澄み切っていて今まで見たどんな星空よりも綺麗だ。しかし、彼女の気持ちは浮かばない。
扉を叩く音がした。スノウは我に返って返事をする。
「スノウ……まだ起きているか」
それはセフィライズの声だった。スノウが扉を開けると、まだ亜麻色の制服を身に纏ったままの彼がそこに立っている。
「少し、いいか」
「はい、どうぞ」
なんの話だろうか。今日、カイウスの呪いを解けなかった事を怒られるのだろうか。
スノウはセフィライズと会話をすると思い、部屋に備え付けてある椅子に腰掛けた。しかしセフィライズは、入り口付近で立ったまま、彼女を見てる。
「君は……」
セフィライズが何かを言おうとするも、しかし言葉が止まったようだ。彼の作る沈黙が痛い。
「すみません、わたし。治癒術しかないのに」
スノウは自身の不甲斐なさを詫びる。セフィライズがスノウをアリスアイレス王国に連れてきたのは、全てカイウスが患うフレスヴェルグの病を治す為。それ以外は全く必要とされてないというのに、何もできなかった事実。
「それは、問題ない……」
セフィライズがその後の言葉を再び濁している。他に何か言いたい事がある。と、いった表情でスノウを見ていた。何を言われるのかはわからない、しかしスノウは覚悟を決めたように、真っ直ぐにセフィライズを見つめ返す。
「君は、このままでいいのか」
セフィライズから発せられたのは、スノウが想定していたものとは違う言葉だった。
「流れに身を、任せたままで、いいのか」
セフィライズが何を言っているか、スノウは最初、理解できなかった。
「わたしは……」
スノウは胸に手を当てる。セフィライズの言葉が、自分の心の奥深くを抉ったのはわかった。しかし何故かまではわからなかった。
何かが怖い、何かがとてもとても、怖い。その何かを、言い当てられたように感じた。
「明日が終われば、君は自由だ。よろしく頼む」
セフィライズはスノウの返事を確認せず部屋を出た。残されたスノウは、急に音がなくなってしまった気がした。室内をただ呆然と眺める。彼の言葉の意味を、何も理解できていないはずだというのに、心だけが深く深く、奥底まで触られた気分になった。
スノウの部屋を後にし、セフィライズは踊り場から繋がるバルコニーの扉を開けた。一瞬で凍りそうなほどの冷気が彼を包む。その寒さにも構わず外に出た。吐く息が白く、一瞬にして消えていく。
−−−−このままでいいのか、なんて……言えた義理でもなかったな……
彼女の表情仕草に、迷いを、そして諦めを感じた。
初めて出会った時の彼女は、もっと芯の強い瞳をしていた。だというのに、アリスアイレス王国に近づくにつれ、失われていく何か。一緒だと思ったのだ。まるで自分と同じだと。
流れに身を任せ、現状を変えようともせず、何かを、求めようともせず。
ただそこに、あるだけの存在を選んだ自分。そのまま朽ちていく事を選んだ自分。
セフィライズは澄み切った空を見上げながら自嘲した。