31.黒衣の凶徒編 血の力
セフィライズはガーゴイルの意識がスノウに向かないよう、再びナイフを投げた。意味のないそれだが、こちらに注意を引き付けるには十分だと判断したからだった。
ガーゴイルが口を大きく開け、声にならないすり潰した石が混ざり合うような鈍い音を吐き出す。セフィライズは再び剣を体の近くで構え、腰を落とした。
−−−−どこを狙う……?
早くこいつをどうにかしないと、もしもスノウに気が付いたら。
セフィライズは焦っていた。今、彼女の反対に位置取ってしまっている。もしも、このガーゴイルが向きを変え彼女に攻撃を仕掛けたら……絶対に間に合わない。
ガーゴイルの石のような装甲に覆われた腕が伸びる。鈍い音のような雄叫びをあげながら。ガーゴイルの腕を剣で受けることもせず避け、また距離をとった。スノウの方へ近づこうにも、ガーゴイルが邪魔で仕方がない。
ガーゴイルが少し浮き上がり、首を左右に振りながら口を開く。その醜悪な口から、何か白いもやのようなものが出た気がした。瞬間、それは強烈な緋色に変わり炎が渦となって噴き出す。大きく開いた口先は、セフィライズの方へ向けられている。
「今だッ……!」
持っていた剣をガーゴイルに向かって投げる。勢いよく飛ぶそれは、大きく開いた口腔へと突き刺さり、後頭部まで貫通した。石が擦り合うような叫び声が、耳を劈く。苦しみ悶えるように動き周り、地面へと激しく落下した。ガーゴイルの体はゆっくり真っ黒に染まっていく。腕の端、尻尾の先からボロボロと崩れ、そしてそれはガーゴイルとしての姿を成さなくなった。
「スノウ……!」
セフィライズが駆け寄ると、彼女は少し疲れた表情で彼を見た。
「一旦隠れているようにと言ったのに……!」
「すみません、でも、この人が……」
息も絶え絶えの女性の手を握り締め、スノウは今にも泣きそうな顔をした。セフィライズに、癒しの力を使っても全くダメだったことを説明し、俯く。
「わたし、自分の力が強くなったのかと思っていたんです。でも、助けられない。この人を……まだ生きているのに」
どうしてだろう。わたしでは足りない。助けられない。スノウは胸の奥が詰まる。肩を震わせ、手を握って「すみません」とその女性に謝った。もう死の淵に立っているその女性には、届いているのだろうか。
「……死が、救いのこともある」
かける言葉が見つからない。セフィライズは、自分では思ってないぐらい、冷たい言い方しかできなかった。ただ、どこかスノウに向けてではない。そんな雰囲気で。
「そんなことありません!」
スノウは堪らず泣き出してしまう。どうしてそんな冷たいことを言うのかわからなかった。死んでしまっては、どうしようもない。生きていなければ、感じられないこと、見れないもの。
この人にもきっと家族がいて、大切な人がいて、想ってくれる人がいる。
この女性はまだ、生きている。まだ、間に合うかもしれない。だから、そんな簡単に諦めたくない。絶対に、諦められない。スノウは首をふり、再びセフィライズを見た。
「もう一度、やってみます」
「君には無理だ」
「いいえ! やります!」
悔しい。無理じゃない。しかし、本当は……。彼女はわかっていた。無理なのかもしれない。いや、無理なんだということを。
でも。
スノウはもう一度詠唱の言葉を紡ごうと口を開けた。
「待って……」
セフィライズが彼女を制する。
多くの死を見てきた。別れも見てきた。それは、セフィライズだけではない。この世に生きる多くの人にとって、死の瞬間を見ることは特別な事ではない。特にセフィライズにとっては、死は常にそこにある。普遍的で、当たり前で、一般的で……。
戦争が起きれば人が死ぬ。小競り合いで人が死ぬ。盗賊に襲われて一家全員死んでいる。
そしてもちろん、セフィライズ自身が人を殺める事もある。
そこには必ず、死がある。
だから、この死の淵にいる女性もまた、その中の一人。大勢の中の、ただ一人にすぎなかった。けれど。
彼女は必死に助けたいと願っていた。
そのありきたりで、当たり前の死を。抗いたいと願っていた。
セフィライズはナイフを取り出した。右手で持ち、それをゆっくり左手の掌に当てる。
「セフィライズさん、何を……」
「黙って」
セフィライズはためらわず、自身の掌を切り付けた。ナイフで切られた皮膚は裂け、血が滴り落ちるほどに。そのまま彼女の手の上に、自身の手を重ねた。
「このまま、もう一度詠唱して」
「……はい」
スノウは薄々気がついていた。あの時、セフィライズが自身の腕を切り付け、血液がマナに変換されていくのを見て。彼の血液には、特別なものがあることを。だから、彼の傷を癒した時に、スノウ自身は疲労を感じる事がなかったことを。
スノウは再び癒しの言葉を紡いだ。スノウの手に重ねられたセフィライズの手が熱い。彼女の甲から滴る血液が、次第に淡く光放つマナへと変換されていく。
そして、詠唱が終わると、スノウが助けたいと願った女性の傷は無くなっていた。