27 回想
少し前のエピソードですが、出かける前夜の一時を文章にしてみました。
「ここまでバイクにはまるとは思わなかったな…」
キッチンのカウンター越しに、洗い物をしながら妻がそう言って笑った。
私はヘルメットを磨いていた手を止め、彼女を振り返る。
「そうかな」
金曜日の夜、子供達は既に自分達の部屋の布団で寝息を立て、リビングにいるのは私と妻の2人だけだ。
「そうだよ。クルマが好きなのは知ってたけど、マニュアルのクルマをやめるって聞いた時、バイクは通勤用のスクーターなのかなって思ったもん」
「そっか…」
懐かしいな。
私が2輪免許を取ることを妻に切り出したのは、病気をしてからまだ3ヶ月も経っていなかった頃だ。
あの日は珍しく私が平日休みで、妻と2人、近所の和食屋にランチへ出かけていた。
食事をしながら、子供達のことや私のリハビリのこと、妻の仕事のことなどとりとめのない話をし、その中で欲しいものの話になった。
妻が今こんなものが欲しいということから始まり、娘があれを欲しがっている、息子はこれが欲しいみたいだと話しが進み、最後に「あなたは?」と訊かれてちょっと考えた。
「…欲しいけど、どうしてもってほどでもないかなぁ…‥でも別に他には欲しいものも無いしな…」
口にしつつも、その時点では私もまだ迷っていた。
「何? あなたが欲しいものがあるなんて珍しいじゃない。言ってみてよ」
妻が身を乗り出すように訊いてくる。
確かに、私から何かが欲しいと言うことはあまり無かったかもしれない。特に意識しているつもりも無いが、いつも子供達や妻の要望を優先してしまう。
「…バイクの……免許」
私は、妻の表情を窺いながらポツリとそう答えた。
妻はちょっと意外そうな顔をしてから、「大きいバイクの?」と訊き返してきた。
「いや、中型…‥普通免許で良いんだけど」
「持ってないんだっけ?」
「うん。今乗ってるバイクは50ccだから、2輪の免許はいらないんだよね」
この頃は、実家から引き上げてきたホンダのDioチェスタという父が買ったくせに乗らなくなっていたスクーターと、久し振りにマニュアルのバイクに乗りたくなって自分のヘソクリで買ったXR50モタードに乗っていた。
「そうなんだ。あの赤いのは50ccなんだっけ?」
「うん」
自分で言いながら、口に出したことでだんだん欲しいという気持ちが強くなってくるのを感じていた。
妻はふうんと何度か頷いてから、
「…良いんじゃない。クルマもミニバンに変えちゃって、なんだかあなたばっかり我慢してるみたいだったけど、欲しいんなら取りにいきなよ」
とサラリと、さも当然というかのように答えた。
私は反対されると思っていたので、いささか驚き
「とって良いの?」
と裏返り気味の声で聞き返した。
妻が私の驚いた顔を見ながらクスクスと笑う。
「良いよ。リハビリも順調みたいだし、仕事行くのにも使いたいんでしょ?」
「うん」
「でも、危ないのはダメだからね。ケガしないように注意して乗ること。…もう病院はイヤだよ」
笑顔で言われて深く頷き、私の心は決まった。
「…じゃあ、免許取りにいってもいい?」
「良いよ。生命保険の病気給付金も思った以上に出て余ってるでしょ?」
「うん」
「たまには良いじゃない。せっかくカラダも良くなってきたんだから、好きなことやりなよ」
「ありがとう」
こうして、2人だけのささやかなランチの席で、今の私へと繋がる轍が刻まれ始めた。
数日後、私は自動車教習所へと申し込みの手続きに行き、多少の苦労を経て教習を終了し、バイク乗りになった。
そして今、こうしてリビングで明日のツーリングに備えてヘルメットを磨いているという訳だ。
「明日、友貴と一緒で大丈夫? 邪魔だったら1人で行ってきても良いんだよ」
洗い物を終えた妻が私の手許を覗き込みながら言う
「大丈夫だよ。友貴も楽しみにしてたし、たまには男2人で出かけてくるよ」
「ならいいけど」
私は手許のSサイズのヘルメットを持ち上げて、曇り一つなくなったシールドに妻の顔を映した。
「そのうち2人でどこかに行きたいな」
「アタシと?」
「うん」
「…ま、そのうちね」
妻は笑いながら答えを保留し、リビングを出ていった。
そのうちか…‥。
まあ、急ぐこともない。
時間はこれからたっぷりある。
いつも私を支えてくれる大事なパートナーと、いつか、頼れる相棒の背中に乗って。
妻は昔、弟のバイクに乗せてもらって懲りたらしく、タンデムには乗り気ではありませんが、いつか2人でどこかに出かけたいものです。




