16 飾りじゃない
少し前に書いたお話しです。
秋の長雨はバイク乗りには悩ましいですが、負けずに楽しみたいものですね。
空が暗い。
相棒の背中で空を見上げた私は、頭上の重たそうな色の雲を睨みつける。
細かい雨が灰色の雲から今にも落ちてきそうだ。
9月。暦の上ではすでに秋は始まっていて、店頭にもちらほらと梨や葡萄が並び始めている。
同時に、少し気の早い秋雨の季節も始まってしまっていた。
秋雨といえば長雨の代名詞だ。
これから10月の中旬くらいにかけて、灰色の空から日毎に冷たくなる雨がシトシトと降り続くようになる。
せっかく待ちに待ったツーリングシーズンも、この静かな雨に塗り潰されてしまう。
その朝、私はバイクで出勤することを迷っていた。
目を覚まし、カーテンを開けた窓の外では、昨日からの雨がまだ降り続いていた。
溜息をつきながら軒先に出、夏休みの間に育てた息子の朝顔の鉢植えから種を採る。
雨はだいぶ小降りになっているが、霧雨の中を走ると意外に濡れるし、カッパを着ても雨の中の運転は億劫なものだ。
少し憂鬱になった。
太陽の下でバイクに乗りたい…‥
ついこの間まで、あんな陽射しの下でバイクに乗るのはキツイ、などと言っていたクセに我が儘だよな…‥
手のひら一杯になった朝顔の種を小さな封筒に詰めてやり、リビングに戻ってヒゲを剃りながらテレビの天気予報をチェックする。
「…今日の関東地方は雨が降ったり止んだりの不安定なお天気…‥」
気象予報士の女性が洗濯物は部屋干しが良いでしょうと言うのを聞きながら、
「降ったり止んだりか…」
と呟いた。
帰り道は諦めてカッパを着るにしても、出勤する時には止んでてくれないかなと都合の良いことを考える。
新聞に目を通し、朝食を食べ、ゴミを出しに表に出た。
「うーん…」
いつの間にか雨が止みかけている。
私は空を見上げながらゴミ集積所まで歩いた。
「…‥」
また降り始めるのか、それともしばらく止んでくれるのか…
駐輪場を眺めながら家に戻り、着替えをする。
「よし、決めた」
私はヘルメットを手に「いってきます」と家を出た。
背後では妻が呆れ顔で「いってらっしゃい」と手を振っている。
駐輪場でバイクカバーを外し、チェーンロックを解除して路肩までバイクを押す。
もう一度空を見上げた。
雨は、上がっていた。
「ちょっと久し振りになっちゃったな…‥」
ライムグリーンの車体を、わずかな不安を抱きながら見つめる。
雨と、他の2台の相棒との兼ね合いで、スーパーシェルパのエンジンをかけるのは1週間振りだった。
「かかってくれよ…」
先ほどPRIにしておいた燃料コックをONの位置に戻し、キーを捻ってチョークノブを引く。
スタートボタンを押した。
キュキュキュキュキュ…、キュキュキュキュキュキュ…‥
かからない。
キーをOFFの位置まで戻し、車体を前後左右に軽く揺さぶる。
気休めでしかないが、かかって欲しいと願う気持ちがそうさせた。
キーをONに回し、再度チョークノブを引いてスタートボタンを押す。
キュキュキュキュキュキュ…、キュキュキュキュキュキュ…、キュキュキュキュキュキュ…、
かからない。
少し涼しくなってきているので、キャブレターの再設定もそろそろ必要になっているのかもしれない…
キーをON/OFFして同じ手順を繰り返し、スタートボタンを押した。
キュキュキュキュキュキュ…、キュキュキュキュ…キュ…キュキュキュキュ…‥
セルモーターの作動音が頼りなく響く。
エンジンは始動してくれない。
スーパーシェルパはキックペダルの無い、セルスタートのみのバイクだ。これでダメならあとは押しがけをするよりない。
…押すか?
一度キーをOFFに戻し、燃料コック、キルスイッチと何か忘れていないか確認し直す。
正直なところ、押しがけは苦手だ。
日常生活に支障が無いとはいえ、病気をして以来、走ったり、跳んだり、階段を降りたりというのは未だに苦手なままだ。
当然、110kgと軽量級のスーパーシェルパとはいえ、押しながら走る必要のある押しがけスタートは、出来ないとは言わないが、得意ではない。
キルスイッチはきちんとRUNになっていた。燃料コックもONの位置になっている。
問題は、無い。
押すか…‥
最後にもう一度だけ…‥と車体を揺すり、キーを捻ってチョークノブを引いた。
わずかにアクセルを開いてスタートボタンを押す。
キュキュキュキュキュ…、キュキュキュキュキュキュ…、キュキュ…バ…‥バ…‥ババ、バババババババ…
「かかったぁ…‥」
安堵の溜息がフーと長く伸びて力が抜けそうになる。
ようやくかかったエンジンが止まらないようにアクセルを調節しながら、エンジン音に違和感が無いか確認する。
大丈夫そうだ。あとは実際に少し走れば調子を取り戻してくれるだろう。
私はヘルメットをかぶってシートを跨ぎ、トットットットッ…と鼓動を刻む相棒のタンクにそっと手を置いた。
すまなかったな。
天気ばかりを気にしている場合ではなかった。
バイクは走ることこそが本来のカタチだ。駐輪場の飾りじゃない。
このバイクに出会った頃の気持ちを思い出そう。
私は空を見上げ、灰色の雲を睨みつけた。
いま降っていない雨を憂鬱に感じていてはバイク乗りらしくない。
私が跨っているのはバイクなのだ。
コイツは世界と繋がったまま加速をする機械。
雨に触れ、風を感じ、陽射しを浴びる、私に鮮やかな世界を見せてくれる相棒。
クラッチレバーを握り、チェンジペダルを踏み込んだ。
アクセルを開く。
走ろう。
世界は我々の目の前に広がっている。
この秋の長雨には悩まされたり、辛い目にあったりされた方も多いと思いますが、少しでも早い復旧を祈ります。




