ある老女の独白
夜陰を割くように、紙が破れる音が響く。
老いた耳にもその音が確か聞こえて、アレクシスは静かに音の出所に視線を向けた。寝る前に消したはずの暖炉には赤々とした炎が揺れて、その前にはアレクシスに背を向けるように一人の女が立っていた。音は、女の手から聞こえ続けた。
修道服に身を包んでいてもその人物が誰か理解しているアレクシスはそっと言葉を投げかけた。
「それは、お気に召しませんでしたか」
「ええ、とても」
音は止み、代わりに凛とした声音が肯定する。あの頃に聞いた時と同じ澄んだ少女の声は、今の年齢には不釣り合いのように思えた。
「ベアトリスがあなたには気をつけるように言った意味がわかりました」
懐かしい名前だ、とアレクシスは両目を細めた。
そして、自分がどうなるかを理解して、そのまま瞼を下ろした。抵抗しようにも老いさらばえたこの身体は言うことを聞かない。それに、もうどうでもよい。余命いくばくかの人生だ。妻は娘夫婦の元へ泊まりにいっているので気にすることはなにもない。
「あなたは賢く、そして愚かでした」
女は手に持つ細切れとなったページを暖炉に焚べた。数年の歳月をかけて書き上げた日記が火の粉と化して宙を舞う。
処分しきれず、引っ越し先にも持ってきた日記が呆気なく燃える様子をアレクシスは黙って見守った。
「こんなものを書かなければ、眠るようにカイラさまの元へいけたでしょうに……」
「私は、ただ知りたかっただけです」
「……好奇心は猫をも殺す、異国の言葉ですがあなたにはぴったりですね」
はあ、と女は息を吐く。ロッキングチェアに腰掛けると炎を見つめた。
「アリスティアは、誰よりも真面目で思いやりのある娘でした」
まるで昔話を語るように、女は喋りだした。滔々と、よどみなく。
「カイラさまの逸話を知り、ご自身もそれに見合う人間となるために夢も人生も犠牲にする勇気ある娘でした」
「夢、ですか」
「お嫁さんになりたかったそうです。ウエディングドレスを着て、愛した男性とバージンロードを歩くのが夢だと、アリスティアは言っていました。同時に、その夢は一生叶わないとも……」
聖女はその生涯を純潔であることが求められている。引退してからも誰とも交際や結婚を許されない。
「好きでもない男に身を暴かれ、聖女としてのプライドをズタズタにされてもアリスティアは前を向き続けました」
なるほど、とアレクシスは心の中で納得した。欠けていたピースがはまったような例え難い高揚感に見舞われた。
「アイザックさまが自死を遂げたこととなにか関係がありますか?」
「その名を出さないで!!」
女は甲高い声で叫んだ。
直後、怒りを消し去るように背中を丸めて荒く呼吸を繰り返す。しばらくして、冷静さを取り戻したのか深く息を吐きだした。
「あの畜生にも劣る男は、地獄で自分の行いを悔い改めていることでしょう。……なんて、忌々しい。あの男がいなければ、わたくしたちは、ずっと一緒にいられたのに」
声には悲しみが滲む。
「アリスティアは、悩んだ末に聖女として生きることを選びました。掟に背きながらも、国のため、民のためにその身を尽くすと……。わたくしたちは、アリスティアの意志を汲み、片時も離れず側にいました」
女は奥歯を噛みしめた。
「……いつまでも秘密には、できませんでした。そのことが発覚すれば教会の権威が崩れるとあの子は知っていました。だから毒を飲み、自分自身を犠牲にすることで教会を守ろうとしたのです」
推察通りだな、とアレクシスは他人事のように思った。
「わたくしたちはアリスティアの望み通り、彼女の遺体を〝聖女らしく〟見せることにしたのです。そのためには、まず彼女を殺さねばいけませんでした。バーバラがお腹を裂き、シェリルが取り上げました。産声をあげないようにキャロルが塞ぎ、ベアトリスが首を絞めて、冷たくなった彼女をわたくしが土へと埋めました」
女はロッキングチェアから立ち上がると暖炉へと近づいた。袖が落ちないように片手で押さえながら、薪を手に取る。
「当時のことを知る人間は、今ではわたくしとあなたのみとなりました」
アレクシスのベッドへと近付くと女は薪を掲げた。黒ずんだ先には赤い炎が揺れている。その炎は、どこかで見たことがあった。
「これで全てが終わりです」
薪が女の手から落ちた。
シーツを舐めた炎は徐々に勢いを増してゆく。
「アリスティアは完璧でした。穢れも知らぬ、聖女でした」
アレクシスの眼前に炎が差し迫る。あの子たちを焼いた炎が——。
※
後日。クローディア王女が失踪したという号外が配られた。
その新聞の片隅には、田舎で一軒家が燃えて、二人の焼死体が見つかったと記されていた。片方はその家の主人、もう片方は女と判断されたが身元は不明のままだという。




