1 母の魔法
「こっちへいらっしゃい」
花の香りを纏った美しい女、ローズィア王国の王妃ロゼリアは優雅に両手を広げながら微笑んだ。
彼女は咲き誇る花のように華やかで、茨のように冷酷な女だった。
「お待たせしてしまい申し訳ございません」
私は、幼い頃から矯正し続けた完璧な笑みを浮かべて王妃の元へ歩み寄る。
ふんわりとした淡いピンク色の髪を揺らしながら歩く姿は、この女と同じように眩いほど美しいのだろう。
すっと伸びた完璧な姿勢に、手のひらで簡単に覆えてしまいそうなほど小さい顔。明るい水色の瞳と、真珠のように白い肌に咲く薔薇色の頬と唇。
そのすべてが、この女と同じだった。
「気にしなくていいわ。陛下の元へ行っていたのでしょう?」
強烈に漂う甘ったるい香りが脳を刺激する。
ロゼリアの身体から漂う薔薇を煮詰めたような香りは、人間を誘惑するには最も効果的だということを私はよく知っていた。
嗅ぎ慣れている私でも時々ぼうっとしてしまうのだから、初めて彼女を前にした人たちが無意識に跪いてしまうというのも納得だ。
香りだけで人を魅入ることができてしまう。
まるで呪いのような女。
そして、彼女によく似た自分も……。
「愛しい私の娘」
立ち上がり、こちらを見下ろす王妃の瞳は宝石のように輝いている。
私の母。私が絶対に逆らうことのできない存在。
ロゼリアの指先が、娘の腰まで流れる淡いピンク色髪を優しく梳く。
「お前が嫁いで行く日が来るのがこんなに早いとは驚きだわ。月日が流れるのはあっという間だというけれど、ここまでだったとはね」
ロザリアの声で、先程謁見室にて冷淡に告げられた言葉が脳裏でこだまする。
『アルヴェリア帝国が、お前を皇子の妃として迎えたいそうだ』
足元に敷かれた赤い絨毯が、まるで血で染まっているかのように思えるほど本当に地獄のような空間だった。
敵国の元へ嫁ぐ、人質同然となる娘に対して、どうしてめでたいことのように言ってのけることができるのか。
母には限りなく甘い父が、母と瓜二つの姿持つ娘に対してはゴミくず同然の眼差しを向けることが私には理解できなかった。
「ソフィア?」
優しげな言葉と共に頬に添えられた両手に、ハッと意識が戻される。
「お母様。素敵な嫁ぎ先を見つけてくださり、本当にありがとうございます」
こちらを凝視するロゼリアに向かって、私は慎ましく返事をした。
すると、前髪が丁寧に横へ流され、限りなく甘やかな口づけが額へ落とされる。
「今日お前を私の元に呼んだのはね、可愛い娘の門出のためにおまじないをかけてあげるためよ」
娘の頬に両手を添えたまま色っぽく囁いた王妃は美しく笑った。
「おまじない、ですか?」
「そうよ。とっても素敵なおまじない」
真っ赤な薔薇のような唇の端が吊り上がる。
その美しさに、私は完全に魅入られてしまっていた。
私の母は本当に恐ろしい女だ。
次の瞬間、目の前に禍々しい紫色の魔法陣が浮かび上がる。
「い、いや……!」
左胸へと広がるそれが目に入った途端に全身が震え出す。
冷や汗が額を伝って、頬に流れ落ちた。
「心配しなくていいわ。お前はすぐに私の元へ帰ってくる」
いつもは神経を研ぎ澄まして必死に耳に入れようと奮闘する母の声も、今は全く頭に入ってこなかった。
私はただ、唇を震わせて彼女の恐ろしいまでに整った顔を見つめた。
その魔法陣には見覚えがあった。
忘れることなど決してできない、彼女自身に植え付けられたトラウマだ。
絶望に染まった人間の顔を初めて見た時の記憶。
昔、面白いおもちゃを手に入れたと言ってロザリアが連れてきた男のことだ。
その男にも、ロザリアはこれと同じ魔法をかけていた。
紫と黒が混じった魔法陣。
禁句とされる黒魔術の一種――死の呪いだ。
「お、お母様、どうして……」
震える声で問うと、ロゼリアはうっとりとした目で私を見つめた。
まるで自分のしたことは単なる愛情表現だと言わんばかりに愛に満ちた眼差しだった。
「この私が、愛する娘を何の考えもなく敵国へ嫁がせると思う?」
衝撃に唖然とすることしかできない娘に、王妃は恐ろしいほど穏やかに説明した。
「世の中にはね、この私に牙を剥く愚か者が大勢いるのよ。一人残らずこの手で切り刻んでやりたいけれど、皇族となれば、そう簡単にはいかないでしょう?」
優しく頬に手を添えられ、深青色の瞳が見開かれる。
その瞳を唖然として見つめていると、それに気づいたロザリアが楽しそうに笑った。
「現皇后の息子よりも、第一皇子の方が見目麗しいそうよ。お前も美しい男の方が良いでしょう?」
計算高く残忍なロザリアが、それだけの理由で私を嫁がせるとは到底思えなかった。
私は、その一挙一動を見逃すまいと必死に目を見開いた。
「私は帝国が血の海になることを望んでいるの。きっと、夢のように素晴らしい光景のはず……」
熟れた薔薇のような赤い唇が妖しく吊り上がる様は、息を呑むほど美しかった。
「だからね」
私の頬に手を添えたロザリアは、無邪気にニコッと笑った。
「お前がアルヴェリアの皇子を殺してきなさい」
「……な、何を言っているのですか?」
「アルヴェリアの皇子妃として暮らすのはたった一年間。その間にお前が第一皇子を殺すのよ」
「そ、そんなこと、私にできるはずがありません。帝国の第一皇子と言えば、戦でも負け知らずな恐ろしい男だと言うではありませんか……!」
困惑した私を見て、母は楽しげに笑う。
「お前は私の娘なのだから、一人の男を虜にすることなんて容易いでしょう? どんな男でも、心を開いた女に対しては隙が生まれるものよ」
お母様も、そうやって国王だった父を虜にしたのですか?
自分の願いを叶えるために男を利用してきたのですか?
今度は自分によく似た娘を使おうと?
誰もが母と私はよく似ていると言う。私も、父親の要素が少しも入っていない自分の容姿が誰に似たのかなんてことは知りえていた。
それでも、魔女のように完璧な美しさを持つこの女のようになれる日は一生こないと思った。
こなければいいと、心から願った。
「私は母親よ。一体誰に似たのか、心優しい性格をしたお前が人を殺せないことくらい分かっているわ。だから、この母が背中を押してあげているんじゃないの」
「ですが……」
「人間が真の力を目覚めさせる時は、自分の生死が関わった時よ。私はそういう人間を大勢見てきたわ。これでお前も覚悟を決めることができるというものでしょう?」
窓から差し込む陽光がロゼリアの顔を照らす。
この世のモノとは到底思えない美しさだった。
「夫を殺すか、お前が死ぬか」
甘い声色に騙されてはいけない。
言葉と仕草でどれだけ取り繕おうが、この女は決して私を愛してなどいない。
彼女の心には、感情というものがすり落ちてしまっているのだ。
欲望以外の全てを失った女は、表向きに取り繕った術で自分の願いを叶えるために人を使う。
たとえそれが、自分の身体から産み落とした実の娘だとしても。
「私の可愛い娘。お前を心から愛しているわ。ちゃんと自分の役目を果たして、お母様の元に帰っていらっしゃいね」
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