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第六章 累積確率の崩壊と、静算された特異点

 「いらっしゃいませ。……って、またあなたですか、平松さん」週明けの昼下がり。喫茶店のレジカウンターの向こうで、一ノ瀬さんは僕の顔を見るなり、あからさまに戸惑ったような顔をした。 僕は、休日に血眼になって作成したA4判・全二十ページの一ノ瀬勘違いレポート表紙:母性本能の起動と嫉妬に関する一考察を、恭しくレジカウンターへ提示した。そして、店内のお客さんにも聞こえるような凛とした声で、二回目の出力を実行した。「好きです。一ノ瀬さん、僕と付き合ってください。これで二回目です。累積確率は九十九パーセントです」一秒。二秒。三秒。 店内が、世界が終わったかのような静寂に包まれる。一ノ瀬さんは、目の前に置かれた狂気のレポートと僕の顔を交互に見つめ、みるみるうちに耳の根元まで真っ赤に染まっていった。「平松さん」「はい、受領ですか?」「……ちょっと、バイトがあと一時間で終わるので、前回の公園でお待ちいただいてもよろしいでしょうか?」蚊の鳴くような声だった。しかし、それは明確に「次のフェーズへの移行」を許可するシグナルだった。僕は満足して頷き、「了解した」と告げて店を後にした。一時間後。五月の終わりの風が吹き抜ける公園のベンチで、僕は一ノ瀬さんと並んで座っていた。先ほどまでの初々しい赤みは完全に消え去り、今の一ノ瀬さんの横顔は、まるでバグを冷徹に検知するセキュリティシステムのように静かで、淡々としていた。「平松さん。一つ、正確なデータを教えていただけますか?」「何なりと。僕の脳内ソースコードはすべて開示可能です」「前回、この公園で私と会ったあと……何人に告白しましたか?」心臓の鼓動が、一瞬だけ跳ね上がった。一ノ瀬さんの瞳の奥にある、冷徹なまでの静かな怒り。それが僕の防衛本能を刺激する。「してません」「……本当ですか?」一ノ瀬さんが、じっと僕の目を覗き込んでくる。その視線の圧力に、僕の論理回路が細かく悲鳴を上げた。「ひ、一人だけです」「平松さん、ノートPCを見せていただけますか?」完全に逃げ場を失った。僕は震える手で、カバンからアルミ筐体のノートPCを取り出し、スプレッドシートの画面を開いて彼女に差し出した。そこには、あの日以降に僕が試行したアプローチのログが、綺麗にナンバリングされて並んでいた。「……十人です」一ノ瀬さんは、画面に並んだ「サンプル1から10」の文字列を静かに見つめた後、深く、本当に深い溜息を吐き出した。



 「やっぱり、あなたって、最低のポンコツですね」そう呟いた彼女の顔は、怒っているはずなのに、どこか呆れたような、それでいて妙に嬉しそうな、僕のどんな数式でも定義できない複雑な曲線を記述していた。カチャ、と静かな部屋にキーボードの音が響く。公園で静かに詰められたログを、僕は自宅の暗闇の中でタイピングしていた。「ポンコツか・・・一応、大卒なんだけどな・・・」僕の中で、一ノ瀬さんの不思議な言葉の意味が僕には理解できなかった。時計の針が、二〇二六年六月十一日二十時四十八分を指した、その刹那の記録であった。


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