第七章 過学習の検証と、単一変数の固定
カチャ、と静かな部屋にキーボードの音が響く。二〇二六年六月。深夜の自室で、僕はモニターに表示されたスプレッドシートを睨みつけていた。画面に並ぶ、サンプル1から10の文字列。西園寺さんや城崎さんをはじめとする、僕が並列処理でアプローチを試みた女性たちの全ログ。僕はマウスのカーソルを全選択へと移動させ、躊躇なくデリートキーを打設した。一瞬にして、画面が白く初期化される。過学習は、システムの破滅を招く。あの日、公園で一ノ瀬さんに「最低のポンコツ」と静かに詰られたあの日から、僕の論理回路は一つの決断を下していた。確率論による分母の無差別拡大を一時凍結し、変数を一ノ瀬という単一の分子に固定する。これこそが、現在の僕に求められる最適化だ。しかし、問題はそのアプローチ方法だった。「相手の感情の曲線を計算しようとする前に、どうしてその曲線が揺れてるのか、ちょっとは人間の心で考えなさい!」脳内で再生される彼女の説教ログ。人間の心という、定義不能のブラックボックス。それを解析するためには、表面的な行動ログ「髪をかきあげた、微笑んだ」ではなく、彼女の固有のパラメータ―すなわち、過去、趣味、なぜあの寂れた喫茶店で働いているのかという背景データのサンプリングが必要不可欠だ。
翌週の休日。僕は一ノ瀬さんを店外へ連れ出すことに成功した。場所は、オフィス街から少し離れた、緑の多いオープンカフェ。「……ねえ、平松さん」テーブルの向こうで、私服姿の一ノ瀬さんが、心底不思議そうな顔で僕を見つめていた。ボブカットの髪が、初夏の風に優しく揺れている。「何でしょうか、一ノ瀬さん」「これ、世間一般ではデートって言うんですけど。どうしてあなたは、さっきから私の前に質問票って書いたバインダーを広げてるんですか?」「デートではありません。これは対人プロトコル検証会です」僕は大真面目に答えた。バインダーには、彼女の好感度曲線の変動を予測するための質問がびっしりと並んでいる。「君の心の揺らぎを正確にトレースするためには、初期値のサンプリングが必要です。第一問、休日の最大リソースの投資先について」「普通にデートって言いなさい! あと質問が硬い! 取り調べじゃないんだから!」一ノ瀬さんは頭を抱え、深く溜息を吐いた。だが、その顔は不思議と嫌そうではなかった。「はぁ……。私の休日の過ごし方? 普通に動画配信サービスで映画観たり、たまに近くの商店街を散歩したり、そんなもんですよ」「なるほど。インドアとアウトドアの比率は四対六といったところですか。映画のジャンルは? 遷移確率を割り出したいので、過去三作品のタイトルを」「だから、数式に落とし込もうとするのやめなさいってば」
一ノ瀬さんは呆れながらも、僕の拙い質問に一つ一つ、丁寧に答えてくれた。データではない。彼女の口から語られる生身の言葉。それを聞いているうちに、僕の胸の奥で、またしても数式では説明のつかない奇妙な熱量が蓄積されていくのを感じていた。一ノ瀬さんという不規則な曲線。その波形に触れるたび、僕の直線的な論理は少しずつ、しかし確実に書き換えられようとしていた。カチャ、と静かな部屋にキーボードの音が響く。一ノ瀬さんからサンプリングした、映画の好みや、昔飼っていた犬の話などを、僕は自宅のPCに文字として丁寧に記録していた。数値化はしない。それが、今の僕にできる精一杯の人間の心への歩み寄りだった。
その時だった。モニターの右下に、一通のシステム通知がポップアップした。プライベート用のメールボックス。そこには、大学時代の卒業研究以来、一度も同期されることのなかった古いアドレスからのパケットが着信していた。件名は「線形モデルの限界と、新しいアルゴリズムについて」。差出人の氏名を目にした瞬間、僕の指先が、冷えたアルミの筐体の上でピキリと凍りついた。西園寺。受付の西園寺さんではない。かつて大学時代、僕に感情の線形モデルの基礎を授け、そして完璧な予測数式と共に僕の前から姿を消した、僕の論理の「生みの親」にして、最初の特異点。
時計の針が二〇二六年六月十四日二十一時十五分を指した、その刹那の記録であった。単一変数に固定されたはずの僕の数式に、過去の深淵から、最も冷徹で、最も美しいノイズが混入しようとしていた。




