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第五章 特異点の過学習と、二次遷移確率

 カチャ、と静かな部屋にキーボードの音が響く。二〇二六年六月。休日の僕の自宅。アルミ筐体の冷えたノートPCのモニターには、かつてないほどの熱量で構築された、一冊のPDFドキュメントが映し出されていた。「被験者:一ノ瀬(喫茶店員)における感情波形の異常パルスに関する検証レポート」あの日、公園で僕のPCを叩き閉じた彼女の挙動を、僕は自宅で幾度となく反復解析した。そして、データアナリストとしてのプライドをかけ、ついに一つの真理に到達した。「一ノ瀬さんは、僕に好意を持っている」論理的根拠は山ほどある。まず、彼女は「窓から見えたから」と言って、わざわざ店を出て僕に缶コーヒーを差し入れた。これは、労力・原価を割いてまで特定のオブジェクトに干渉しようとする自発的アプローチだ。 さらに、僕の悲惨なデータシート「西園寺さん、城崎さんからの拒絶ログ」を見て、彼女は激昂した。ランダムサンプリングの失敗に対して、人間がこれほどの熱量を消費して怒るはずがない。これは、他の女性にリソースが分散することへの、生物学的な縄張り意識すなわち、一般社会で言うところの嫉妬に他ならない。僕は画面の考察の欄に、力強くタイピングしていく。結論、平松の絶望した姿が、一ノ瀬の脳内システムにおいて母性本能のトリガーを起動させた。彼女は僕を保護すべき対象、すなわち、自分の手でデバッグすべき愛おしいポンコツと認識している。完璧だ。一ノ瀬さんの感情の曲線が、僕の直線と交差するポイントがはっきりと見えた。では、なぜ彼女は僕の交際申し込みを「根本的に間違っている」と拒絶したのか。僕は腕を組み、画面を睨みつける。一秒。二秒。……カチッ。脳内のCPUが、閃光のような答えを弾き出した。「そうか……! 僕に足りなかったのは、二回目の告白という手続きだ!」



 確率論において、一回目の試行と二回目の試行は独立しているようでいて、恋愛という動的システムにおいては累積確率として加算される。一度目の告白で認知の種を撒き、二度目の告白で成約を刈り取る。一ノ瀬さんは「もう一回ちゃんと手続きを踏みなさい」と、遠回しに僕へリクエストしていたのだ。僕はスプレッドシートの「作戦コード:一ノ瀬リトライ」のステータスを実行可能へと書き換えた。時計の針が指す時間は、もはや関係ない。僕の脳内レートは、すでに一ノ瀬という唯一の分子でストップ高を記録していた。


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