第四章 特異点と、バグによる説教
五月の終わりの日曜日。 僕はオフィス街の片隅にある小さな公園のベンチで、ノートPCを開いたまま頭を抱えていた。五月一日の太陽はあんなに容赦なかったのに、今日の曇天は僕の脳内ログのように薄暗い。「なぜだ……。試行回数はすでに五百回を超えた。確率論的には、一回以上の成功率が八十パーセントを超えているはずなのに。世界側の乱数生成がおかしいのか……」完全に論理の迷路で行き止まりに突き当たっていた、その時だった。「何やってるんですか、ロボットさん」不意に頭上から降ってきたのは、鈴虫の完璧な周波数などよりも遥かに、僕の鼓膜に心地よく同期する声だった。 視界に滑り込んできたのは、一本の冷えた缶コーヒー。 見上げると、あの喫茶店のエプロンを外した、私服姿の一ノ瀬さんがそこに立っていた。「一ノ瀬、さん……。なぜここに」「なぜって、そこ、うちの店のすぐ裏の公園ですよ。窓から、すっごく暗いオーラ出してパソコン叩いてる人が見えるなーと思ったら、案の定あなただったから」彼女は呆れたように笑いながら、僕の隣に腰掛けた。 僕は藁にもすがる思いで、液晶画面を彼女に向けた。「聞いてくれ。僕の計算は完璧だったはずなんだ。西園寺さんも、城崎さんも、パラメータの初期値は最高だった。それなのに、なぜかエラーを吐いてデータが消失した。僕の論理のどこにバグがある?」一ノ瀬さんは、画面にびっしりと並んだ女性たちの名前と、その横に記された髪をかきあげた=性的合図、お返しをくれた=経済的合意という僕のメモを凝視した。そして、見る見るうちにその綺麗な眉をひそめ、信じられないものを見る目で僕を睨みつけた。「……あなた、私が明日も来てって言った後、他の女の子にばっかり告白してたの?」「並列処理だ。効率化のために」 「効率化って何ですか! あーもう、本当にバカなの!?」「バカではない。データアナリストだ。だから、データ修正のために、まずは最初の不規則なバグである君でテストをさせてほしい。一ノ瀬さん、僕と付き合」バタン! 一ノ瀬さんは、僕のノートPCの画面をものすごい勢いで叩き閉じた。「だから! それが根本的に間違ってるんですよ!」「な、なぜだ。画面を閉じたらログが追えない。分母を増やして確率を……」「恋愛はガチャじゃないんです!」一ノ瀬さんは立ち上がり、僕の胸元を指差して、一文字ずつ叩きつけるように言った。 「西園寺さんも、城崎さんも、あなたのスプレッドシートの数字になるために生きてるんじゃないの。相手の感情の曲線を計算しようとする前に、どうしてその曲線が揺れてるのか、ちょっとは人間の心で考えなさい!」「人間の、心……」「そう! 分母を増やす暇があるなら、目の前にいる私の心の計算でもしてなさい、このポンコツ!」一ノ瀬さんは真っ赤な顔でそう言い捨てると、缶コーヒーを僕の膝に押し付け、怒ったようにヒールを鳴らして去っていった。論理の檻の中で生きてきた僕の脳内に、今まで聞いたどんなエラー警告音よりも激しく、そして美しい衝撃波が走り抜けていた。カチャ、と静かな部屋にキーボードの音が響く。叩きつけられた彼女の説教のログが、僕の脳内で無限ループを繰り返している。カチッ。恋愛のアルゴリズムは、正確な答えを導き出した。「一ノ瀬さんが僕に嫉妬をしている!」
時計の針が、二〇二六年五月三十一日二十二時三分を指した、その刹那の記録であった。 完璧だったはずの僕の数式は、一人の怒れるヒロインによって、ただのゴミ箱へとドラッグされた。




