第二章 分母の無差別拡大と、疑似相関
喫茶店のレジカウンターで、一ノ瀬さんという極めて魅力を放つ不規則なバグと遭遇した翌日。 僕はベッドの中でスマートフォンスプレッドシートを見つめ、一つの論理的結論に達していた。「明日もここに来てください」一ノ瀬さんの残したあの言葉は、データサイエンスにおけるデータ遅延、すなわち一時的な保留状態に過ぎない。合理性を追求するアナリストとして、その結果をただ待つのは時間の過失だ。確率論の基本は、並列処理である。一ノ瀬さんというサンプルを解析しつつ、同時に他の分母も拡大していく。これこそが最適解だ。
「おはようございます、平松さん」朝、自社が入るオフィスタワーの一階。受付の西園寺さんが、僕の顔を見てにこやかに微笑み、小さく会釈した。僕はその瞬間、脳内のスプレッドシートを猛烈な速度で書き換える。彼女が僕の名前を呼んだ。これは明確な個別認識シグナルの検出だ。さらに首筋を右に傾ける角度が約十五度。生物学における親和性の誇示およびフェロモン受容体へのアピールに他ならない。一ノ瀬さんの時よりも環境変数は良好。ここで試行回数を稼ぐのは、確率論的自動人形として当然の帰結だった。僕は受付カウンターに滑り込み、極めて平易なトーンで出力した。「好きです。僕と付き合ってください」西園寺さんは一瞬、ギリシャ彫刻のように固まった。数秒の沈黙の後、彼女は困ったように、しかしどこか嬉しそうに頬を染めてうつむいた。「えっと……ちょっと急すぎます。あの、お気持ちは嬉しいんですけど、私、社内恋愛はちょっと……」勝利。僕は脳内でガッツポーズを決める。「お気持ちは嬉しい」という文字列の出力は、好意のパラメータが上限値に達している証拠だ。「社内恋愛はちょっと」という拒絶は、本人の感情ではなく、会社の就業規則という外部の環境変数に起因するものに過ぎない。つまり、僕が退職するか、彼女が転職すればこの数式は一瞬で成立する。完璧な疑似相関だ。「理解しました。では、僕が次の四半期までにキャリアプランを書き換えます」「え? あ、そういう意味じゃなくて……!」焦る彼女の反応を照れによるシステムバグと処理し、僕は満足してエレベーターへと乗り込んだ。分母は着実に、質を高めながら拡大している。カチャ、と静かな部屋にキーボードの音が響く。 画面の中で、新しく追加された西園寺さんのデータが青く明滅している。
時計の針が、二〇二六年五月二日二十三時十四分を指した、その刹那の記録であった。 僕はまだ、世界の不条理なルールが、僕のキャリアプラン一つで書き換えられると信じて疑わなかった。




