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第一章 分母の拡大と、摩擦係数

 朝、五月一日の太陽は容赦なく僕の部屋を照らす。 僕はベッドの中でスマートフォンのスプレッドシートを開き、データを更新した。「試行回数:四百三十二回。成功回数:零回。成功率:零パーセント」これが、僕が提唱する「分母恋愛」の現在地だ。一般的な人間であれば、四百回以上も拒絶されれば精神を病むか、あるいは自己評価を地の底まで落とすだろう。しかし、僕にとっては単なる統計データの蓄積に過ぎない。仮に、駅のホームですれ違っただけの異性と交際に至る確率が「千分の一」、すなわち「〇・一パーセント」だと仮定する。この場合、一千回の試行を行えば、少なくとも一回以上成功する確率は約六十三パーセントに達する。確率論における基本中の基本だ。一千回アプローチして駄目なら、そこで初めて自分というシステムの欠陥を疑えばいい。今はまだ、圧倒的に分母が足りていないのだ。僕はいつものようにスーツに身を包み、東京という巨大なグリッドの中へと繰り出す。 僕の職業は、中堅IT企業でのデータアナリストだ。毎日、何百万、何千万というユーザーの行動ログを監視し、彼らの欲望を数値化してグラフにする。「人間は、自由意志で動いていると思い込んでいるだけの、ただの確率論的自動人形だ」それが僕の持論であり、仕事を通じて得た確信だった。特定のバナーを見せれば、一定の割合でクリックし、一定の割合で購入に漕ぎ着ける。恋愛も同じはずだ。適切な刺激を与え、試行回数を増やせば、いつかは成約に至る。



 昼休み、オフィス街の片隅にある、少し寂れた喫茶店に入った。騒がしいチェーン店を避け、思考のノイズを減らすための選択だ。「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」 レジカウンターの向こうで、エプロン姿の女性が穏やかな声をかけてきた。胸元の名札には「一ノ瀬」とある。 ボブカットの髪が、彼女が頭を傾げるたびに小さく揺れる。僕の脳内で、瞬時に環境データの計算が始まった。現在の時刻、十三時十五分。店内の客数は僕を含めて三人。この静寂と、彼女との間に生じる物理的距離。これは、試行を行うための「最適環境」の一つと言えた。僕は財布から千円札を取り出しながら、極めて平易なトーンで告げた。「好きです。僕と付き合ってください」一秒。二秒。 いつもなら、ここで「はい?」と怪訝な顔をされるか、「無理です」と即座に切り捨てられる。 だが、一ノ瀬というその女性は、驚いたように目を見開いた後、僕の顔をじっと見つめてきた。「……えっと、それって、冗談ですか?」 「いいえ、極めて真面目な提案です」 僕は表情を一切崩さずに答える。「でも、あなた、私の名前も知らないですよね? 私もあなたのことを何も知りません」「名前は一ノ瀬さん。名札に書いてあります。僕の情報については、こちらに記載してあります」僕はあらかじめ用意していた、名刺サイズのカードを差し出した。 そこには僕の氏名、年齢、職業、年収、そして「現在、恋愛の分母を増やすための統計的アプローチを行っている旨」が、簡潔に印字されている。一ノ瀬さんはカードを受け取り、そこに書かれた文字をなぞるように読んだ。そして、ふっと、小さく息を吐き出すように笑った。



 「分母恋愛……? なんですか、これ。あなた、ロボットか何かなんですか?」「ロボットではありません。合理性を追求する一人の人間に過ぎません」「面白い人ですね。でも、お付き合いはできません。だって、私に告白した理由が、そこに私がいたからだけでしょう? それって、私じゃなくてもいいってことじゃないですか」ドクン、と胸の奥で何かが跳ねた。 彼女の指摘は、論理的に完璧だった。ランダムサンプリングにおいて、個別の被験者に対する「なぜあなたなのか」という理由は存在してはならない。それは選択バイアスを生み、データの純粋性を損なうからだ。だが、彼女はその「私でなくてもいい」という事実を、明確な拒絶の理由として突きつけてきた。「線」で動く僕の論理が、曲線で動く彼女の感情の波形に、完全に弾かれた瞬間だった。「……その通りです。あなたでなくても良かった。しかし、今ここにいるのはあなたです」僕がそう言うと、一ノ瀬さんはいたずらっぽく微笑んだ。

「じゃあ、明日もここに来てください。もし明日も私に同じことが言えたら、その時はコーヒーを一杯、サービスしてあげます」それは、僕が今までどの数式でも見たことのない、極めて不規則で、魅力的なバグだった。



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