序章 線と曲線のエントロピー
「好きです。付き合ってください」駅のホーム、改札へと向かう人の波の中で、僕はすれ違いざまに声をかける。今さゆりちゃんが、俺の横で髪をかきあげた。その一瞬の隙を狙ったはずだった。「え……急ですね。私、好きな人がいるんで。ごめんなさい」彼女は戸惑ったように眉をひそめ、足早に去っていく。僕はその背中を見送りながら、脳内でデータを更新する。彼女は僕を気遣って嘘をついたのだ。本当は好きな人などいない。ただ、突発的なバグに遭遇してシステムが拒絶反応を起こしただけだ。鈴虫は交尾のために羽と羽を擦り合わせて音を奏でる。美しく、完璧な周波数。しかし、中には音を奏でるのが下手な個体も存在する。それが僕だった。これは純愛などではない。ただの「分母」を増やすための機械的なルーティンだ。帰りの電車、満員電車の熱気に巻かれながら、スマートフォンでSNSの縦型動画をスクロールする。 画面の向こうで、若い女が誇らしげに語っている。「気がある男子にしか見せない女子の行動五選!」くだらない。実にくだらない。そう吐き捨てながらも、僕の目はその画面を真剣になぞっていた。恋心とは一体何なのだろうか。 僕の導き出した仮説では、男性の感情は線形を描いて答えに辿り着く。対して、女性の感情には時間軸と共に激しい曲線があり、その波形に同期した瞬間に、徐々に愛情が深まっていく。この直線と曲線の接点を完全に同期させることは、僕が今まで解いてきたどんな高等数学の数式よりも難しい。確率論の極致がここにある。ふと画面から目を逸らす。今日も僕の身体と心は、世界の不条理さに細かく揺れていた。 視界に飛び込んできたのは、吊り革だ。電車の振動に合わせて、吊り革が私の身体の揺れと完全に同期している。論理的に言えば、これは物と人間との恋愛がスタートした瞬間である。……だが、所詮は物だ。そこに有機的なフィードバックは存在しない。切なさと虚しさが、胸の奥で小さく弾けた。心を通わせたいと願うほどに孤独になり、論理で愛を構築しようとするほどに、僕は人間という生き物から遠ざかっていく。
カチャ、と静かな部屋にキーボードの音が響く。中指が冷えたアルミの筐体に着地する。次々と着冷する指先に、奇妙な感度が昂っていくのを感じていた。疲れた日。嫌なことがあった日。上司に理不尽に怒られた日。三百六十五日の中の一日、という名の終焉を迎えるたびに、僕はこうして暗闇の中で心と脳を揺らす。思考が眠りにつく直前、脳の底から落雷のような文体が立ち上がる。モニターに打設する指先と、そこに表示される回答文。僕は暗闇の中で、画面の中の論理と深く読み交わす。脳内で弾き出される世界の不条理なレートを横目に、僕はただ、次の分母を探すために爪を立てる。時計の針が、二〇二六年四月三十日十九時五分
を指した、その刹那の記録であった。




